2016/07/06
大平城/静岡県浜松市浜北区
大平城(おおだいらじょう)は、井伊氏の城ではもっとも堅固な山城でした。訪問日は2015年1月10日です。

大平城はかなりメジャーな城跡なのでしょうか。綺麗な道沿いに立派な駐車場があります。・・・とはいえ、ここが満車になることがあるのか?というくらいに立派ですけどw

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この駐車場にこれまた立派な説明板があります。早速この説明板に載っていた図をパクリます。図を見る限り、往時はこの左側から城に登るのが正規のルートだった感じです。

登城口の階段脇に、味のある城址碑があります。何となく不気味な感じに見えなくもありませんが・・・

階段を上がってすぐの所にある五体力神社です。変わった名前だなぁ、なんて思いました。どんな神社なんだろう?って縁起を読みましたが・・・昔からこの辺りで心霊現象が多発するとのことで、慰霊のため大正時代に建立したのだとか。・・・陽が暮れて来たら、さっさと退散した方が良さそうですね


神社を過ぎた所にあるのが「出曲輪」です。ちょっとした土台のような感じになっています。高さは5m程でしょうか。それ以外、土塁や堀などの遺構は見当たりません。巨大な馬出しの土塁といった感じです。

そのまま先へ進むと、通路がシダで覆われています。ただ草深いだけならともかく、急な下り坂になっています。「草虎口」とでも呼びたくなりますw

草虎口を下った所に、この案内があります。もはや文字は消え失せ、どっちが何なんだ?って感じですが・・・来た所から遠ざかる方が城跡なんだろう?って感じで進みます。

すると、道らしい道が無くなり、緩い斜面の所々が削平された所に出ました。これは直登しなさい!ってことですね?

登り切った所にこの案内。ここでも文字は消え失せ、ココがどこなのか?ですが・・・

進行方向右側に細尾根が続く感じだったので、あぁこっちね!と進みました。辿り着いたのが「東曲輪」です。「東」に目一杯力を注ぎ、「曲」は何となく書き、「」はもういいやwって感じです。「短気だけど完璧主義」な方が陥りそうなアルアルですね!城跡巡りの楽しみは、遺構を見るだけでは無いんだと、改めて感じます。

東曲輪の先にはただならぬ地形が見えます。さっき文字が消えてた所は「本曲輪」なんですね?今更ですけどw

私の大好物・堀切ですヾ(*´∀`*)ノまさか、南北朝時代のお城にあったなんて!あまり期待していなかっただけに、もうゴチソウサマです恋の矢

東曲輪を堪能した後は、本曲輪の北側の腰曲輪に沿って進みました。平らな所が途切れ途切れなので、斜面を無理やり横切りました。ここは西曲輪の北側にある「空堀」の所です。遠目にも「ゼッタイ何かある!」という所です。

ほら


Uターンして、西曲輪の端の方へ進みます。きっとこっちにもスゴイのがあるに違いない!と期待していました。

西曲輪にある堀切です。こちらの守りは手薄だったのかもしれません


もういいや、でUターン。城から出ようと、元来た方向へ進みます。すると、本曲輪の西側の通路にこれがありました。え、ここ?って感じです。

城址碑が本曲輪ではなく、その脇の通路にあります。ちょっと離れてみると、本曲輪のかなり下にあるのがわかると思います。誰もが間違いなく通るという通路ではないので、見落とす方が結構いると思われます。

さて、最初に通った草虎口は通りたくないと思い、脇から下る道を選びました。最初の図でいうと、五体力神社の右側の道です。こちらは谷間に付けられた脱出用の隠し通路のような感じでした。

無事に最初の道に戻ることができました。その出口にあったのがこれ。登る人は「ああ、ここよそうね」ってなると思いますが・・・下る人が見るのは、もう通っちゃった後です。おいおいって感じですwww
◆歴史◆
井伊氏最強の山城でした。
ですが、歴史に登場するのは一度キリ1339年から翌年にかけて、北朝軍が宗良親王率いる遠江の南朝勢力を攻めた時です。この城の主は井伊氏で、浜松市北部を中心に広大な領地を持っていました。
1337年には北朝方で駿河守護の今川範国と、三方が原で戦っています。その2年後、北朝方の中心人物・足利尊氏が、最強の家臣達を討伐に向かわせました。ということは、遠江では南朝方が優勢だったということかもしれません。・・・よく調べてみたら、宗良親王は東国へ向かう途中で船が座礁。そのため、近くにいた南朝方の井伊氏の元に身を寄せただけのようです

遠江討伐軍は、仁木義長はや高師泰らが主力でした。北朝軍は井伊氏の城を次々と降し、宗良親王が籠城していた三嶽城も落ちました。すると、まだ落ちずに抵抗していたココ大平城へ移りました。そして1340年8月、仁木義長の夜襲によってついに大平城も落城しました。宗良親王は城を脱出し、越後?越中?信濃?駿河?のいずれかに落ち延びました。
井伊氏は北朝方に降ったようで、後に九州探題・今川了俊に従った配下にもその名が見えます。ですが、尾張の斯波氏と今川氏が戦となると、あっさり斯波氏に味方したようで・・・今川氏に従いつつ、ことあるごとに離反を繰り返したようです。斯波氏が遠江に侵攻して井伊氏が寝返った時、拠点として使われたのは三嶽城でした。北朝方の猛攻に最後まで落城しなかった大平城は、その後使われた記録がありません。
所在地:静岡県浜松市浜北区大平
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