2016/07/05
三嶽城/静岡県浜松市北区
三嶽城は三岳城とも表記される、井伊氏の山城でした。訪問日は2015年1月10日です。

三嶽城へは井伊谷交差点を東へ進み、あとは道なりに進めば辿り着けます。その道の所々に、こんな感じで案内が出ています。迷子レベルの高めな私には、とても有り難い代物です


ひたすら道なりですが、1回だけ左折します。そこにはこの案内。

上の案内の所で左折すると、すぐにこの説明板が道端に現れます。すぐ脇に山の中へと続いてそうな道?がありますが・・・ここから山へ入ってはイケマセン。更に綺麗な道を進みます。

すると、広い駐車場に辿り着きます。

右側には立派な石垣のある三岳神社があります。

ここからは徒歩で登ります。

はじめの内は、軽で走れそうな感じの広い道です。

しかし、T字路っぽい所で案内に従って左へ進むと、道幅は一気に狭くなります。

そして、またさらに登ると、コンクリ柱が。「三岳城址」と「二の城址」って、もう城域に入ってますね!そんな所なので、きっと何か防御施設でもあった筈と思いましたが・・・

分岐の所から「三岳城址」方向を見た所です。手前にちょっとした段差があり、道はグネっと曲がってから上に向かいます。

ここが枡形門の跡だそうです。南北朝時代のお城なので、あんまり派手な遺構はありません。ただ、こうやって何となく何かあるっぽい!っていうのも悪くありませんね!

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せっかく城域に入ったので、図を先に載せちゃいます。この図は、二の城の所にあります。麓から登ってくると、さっきの枡形門の所で分岐しています。往時は山を駆け登り息を切らせた寄手を、左右両側から迎え撃ったのでしょうか。ちなみに、図には載っていませんが三の城もありました。それが最初にあった神社で、宗良親王の居館がここにあったそうです。

さて、まずはメインの一の城へ。ここならきっと何かあるはず、と足取りも軽くなります。城攻めの兵も足取りが軽くなると、守る側としては困りますね


程なく、草木が刈られた空間へ。石碑に説明板に色々と賑やかな主郭です。削平がかなり甘いような気もしますが・・・南北朝時代のお城ですから。

お約束の城址碑です


なぜここにお城を?の答えは多分コレ。とっても眺めがイイんです!遠州灘まで、バッチリです。麓で戦ってる味方に、ココから指示を出してたかもしれませんね。

さて、一の城を見たから二の城も、というのが人情だと思います。自分にも人並みな人情ってものがあれば、ですが


だって、周りはこんなですからwww
◆歴史◆
南北朝時代に南朝方の井伊氏が宗良親王を迎えて籠城しました。
築城年は不明です。
1338年、後醍醐天皇の皇子・宗良親王が伊勢から移って来ました。この頃、南朝方として井伊道政(または井伊行直)が駿河の今川範国と戦っていました。後醍醐天皇はさらに大寺院・鴨江寺にも蜂起するよう、綸旨を下していました。遠江での南朝方の動きを受け、足方尊氏は高師泰・仁木義長ら主力に討伐を命じました。
1339年、北朝軍は鴨江寺を5日で降すと、千頭峯城も3か月で攻略。各地で井伊氏の支城を降し、宗良親王が籠る三嶽城の戦況も日々険しさを増しました。そして1340年2月に三嶽城も落城し、宗良親王は最後の砦・大平城へと移りました。
大平城は井伊氏の城の中では最も堅固でしたが・・・1340年8月、仁木義長の夜襲により陥落。宗良親王は大平城を脱出しました。どこへ向かったのかは諸説ありますが、最終的に信濃国大河原に落ち着きました。
1513年、今川氏親に攻められ落城しました。
斯波氏が守護を務めた遠江は、元々は今川氏が守護でした。ということで、今川氏と斯波氏は遠江を巡って度々戦っていました。そして1510年頃、京での政変を機に今川氏が再び遠江守護となりました。今度は立場を逆にして、斯波氏が遠江奪還を狙って出兵するようになります。
遠江に出陣した斯波義達は、井伊氏や大河内氏を味方にします。斯波義達は三嶽城を拠点に攻勢に出ますが・・・大河内貞綱は曳馬城を攻略したものの、今川軍の朝比奈泰煕に敗れて降伏。今川軍は三嶽城に総攻撃を掛けたため、ついに落城しました。今川氏親は三嶽城に奥三河の奥平貞昌が城番を務めました。しかし、以後三嶽城は歴史に登場しなくなります。
今川氏親は1526年に没し、今川家は嫡男の氏輝が継ぎました。まだ14歳だったため、実際の指揮は母・寿桂尼が執りました。
一方、三河では1529年に松平清康が東三河の宇利城を降して、三河統一を達成。奥平貞昌は今川家を離れ、松平清康に従うようになりました。・・・ということで、奥平貞昌は遅くとも1529年までには三嶽城を離れたと思われます。
所在地:静岡県浜松市北区引佐町三岳
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