2016/07/03
刑部城/静岡県浜松市北区
刑部城は川沿いの小さな丘を利用したお城でした。訪問日は2014年8月7日です。

橋を渡り県道からちょっと入った所に神社があります。ここが刑部城の跡です。地形を利用した割に、傾斜が緩い感じがしますが・・・敵を川の対岸に迎えることを想定しているのかもしれませんね。

入口脇の空き地です。家が立ち退いて次が決まっていないだけかと思いましたが・・・隅っこに「館跡」と書かれた小さな案内が立っていました。やはり、対岸の敵に備える造りだったようですね。

最初から見えていましたが、城内に上がる所にある鳥居です。やはりというか、神社の参道って斜面を一直線なんですよね。・・・高低差が思った程ありませんけど


そう思っていたら、鳥居のすぐ左脇がこんな感じでした


せっかくなので、神社の社殿です。近くで徳川家康がヤっちまってるので、その慰霊も兼ねているのでしょうか。参道も舗装までされて綺麗に整備されているので、お参りする人は結構多いみたいですね。
◆歴史◆
築城年は不明です。
城主は新田美作入道と伝わります。すぐ西の堀川城で農民を指揮していたのは、新田友作だったそうです。南北朝時代に南朝方だったこの地域には、新田姓の武士が多かったのでしょうか。古くからあった感じではないので、徳川家康の東進を防ぐため築かれたと思われます。
1568年、徳川家康に攻められ落城しました。
三河を平定した徳川家康が、いよいよ遠江にも攻め込んで来ました。地図を見て普通なら東海道沿いに順次攻め落とすかな?と思いましたが・・・初めに攻略したのは、井伊谷城に依る井伊氏でした。
当時の井伊氏は今川氏真に従っていましたが、家中は分裂していました。徳川家康はここで反今川派を味方につけ、井伊谷城を攻略。井伊家重臣の井伊谷三人衆を道案内として、遠江に軍を進めました。刑部城には今川方の兵が籠っていましたが、徳川軍に圧倒され落城しました。城には菅沼又左衛門(菅沼定盈の叔父?)が入りました。
徳川軍はその後、一隊が大沢基胤の堀江城を包囲したまま曳馬城へ進みました。曳馬城を手中に収めると更に進み、今川氏真が籠る掛川城を攻めました。刑部城の廃城がいつなのかは?です。
城があったかどうかは?ですが・・・1572年、武田信玄は三方が原の戦の後、しばらくこの辺りに滞在しました。徳川家康が大量虐殺した直後なので、反徳川の地として安心出来たのかも。病が重くなったためと思われますが、しばらく後に野田城を攻め落としました。この城攻めにもたっぷり時間を使った後、甲斐へ退却しています。
所在地:静岡県浜松市北区細江町中川
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