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今井城/東京都青梅市

先週たくさん回った都下のお城・・・
2つ目は今井城です。
あと27箇所いつ書こうwww

今井城/都道からの入口
▲ここを曲がります

今井城は入間市との境目近くにあります。写真の看板の所を曲がり、雑木林を回りこむように進みます。

今井城/入口
▲入口

そして、新しい住宅の間を通る道の突き当たりが入口となります。クルマなら1台くらいは、端に寄せればなんとか停められそうです。

今井城/説明板
▲入口にある説明板

入口には青梅市教育委員会が設置した説明板があります。この説明板によると、発掘調査の結果お墓が出土したとか。お墓を壊して造られたお城なんですねドクロ

今井城/堀切
▲城域に入るといきなり堀切!!

失礼しま~す、と城内に入ると・・・!いきなり立派な堀切が現れます。深さ2m、幅は5mほど。噂に違わず遺構の保存状態はとても良いです。

今井城/堀切
▲2郭南側は断崖

堀切を越えた所が2郭です。その南側には簡単な柵があり、その先はちょっとした断崖になっています。

今井城/空堀脇の土塁
▲2郭北側の土塁・空堀を外側から

反対の北側ですが、こちら側は空堀で囲まれ、その外側に土塁があります。ここもよく残っていて見ごたえがあります^^

今井城/北の水路と土塁
▲北側の水路と土塁

北側にはちょろちょろと細い水路が流れています。少し東側に進むと3郭?外周の土塁が城を囲んでいます。

今井城/北東の高土塁
▲北東の大堀切から見上げた所

そこから城内に入る土橋があります。更に東へ進むと、かなり規模の大きな堀切と土塁が現れます。土塁と堀底との高低差は5mないくらい。

今井城/主郭から見た北東の大堀切
▲主郭から見た北東の大堀切

大きな土塁と堀切を越えると、広い主郭に出ます。主郭は北~東~南とも断崖に囲まれ、西側は堀切で断ち切られて2郭につながります。

今井城/主郭
▲主郭内部

主郭の広さは20m四方くらい。居館を構えるなら十分な広さです。北東隅には小さな祠がありました。城内を巡ってみたのですが、大手らしき登城路が見当たりません。だとすると、西から台地伝いに入るのが大手筋かもしれません。

全体的に郭や空堀、土塁などがとても良い状態で残っています。素人の印象ですが、東からの攻撃に備えた造りであるように思えました。


◆歴史◆(妄想たっぷり)

築城時期や築城者は不明です。

『武蔵名勝図会』(1823年編纂)によると、今井氏が数代にわたり住んでいたそうです。そして、今井氏は天正年中(1573~92年の間)に滅びたのだとか。これは現地の人に聞いた話として書かれています。

あとは、発掘調査の結果、主郭の北側にある土塁の中からお墓が出てきたそうです。板碑に書かれた年号から1312年から1522年にかけてのものが出土しました。他にも骨壷や火葬骨なども割と浅い層から出てきました。

・・・今井城について、直接わかっているのはこれだけです。これだけわからないと燃えますメラメラ

『武蔵名勝図会』に名前が登場する人を調べてみると・・・

今井四郎左衛門尉経家についてはわかりませんあせるその子孫である宗家は、南北朝時代の人物だとわかりました。

『建武記』(1334年編纂)によると、宗家は武者所結番の四番に結番されたとあります。武者所は建武新政で宮方の65名で編成された軍団で、後に南朝勢力の中核となりました。

また、正福寺にあった阿弥陀如来像に「応永二年今井四郎氏為菩提」と書かれていたそうです。応永二年は、西暦では1395年に当たります。今はこの阿弥陀如来像は無いそうです。

・・・ということは、1312年より前に築かれ、1522年以降に大きな改修を受けたということですね。阿弥陀如来像を納めたという正福寺には今井氏のお墓もあります。ただし、いつ誰のものなのかまではわかりませんでした。

お墓を潰してまで改修するなんて、とても事態が切迫していたということですね。しかも、ただ潰すのではなく、そのまま埋めてしまうとなると・・・普通に考えれば戦があったとしか思えません。


ヽ(´ー`)ノここからは妄想の世界ですヽ(´ー`)ノ
ヽ(´ー`)ノ真に受けてドヤ顔で引用しないで下さいねヽ(´ー`)ノ

今井城の近隣の勢力を見ると、すぐ西に三田氏、すぐ東に金子氏が居ました。今井氏は入間近辺を本拠とした児玉党の一族です。血縁的には東側の人間と言えそうです。

一方、遺構の残り具合を見た感じでは、東の方が造りが厳重になっています。そのため、城の構造的には三田氏寄りな感じがします。

次に勢力図ですが・・・西の三田氏は山内上杉氏の重臣として活躍していました。一方、東の金子氏も山内上杉氏に仕えていました。立場的には三田氏の方が圧倒的に上ですね。

両者とも最終的には後北条氏の傘下となるのですが、その時期が「少し」ズレています。私はここがポイントだと思います。

三田氏が後北条氏に仕えたのは、河越夜戦が終わった後の1546年です。これに対し、金子氏が後北条氏に仕えたのは、河越夜戦の最中の1545年です。その差は1年も無いのですが・・・

北条氏康は、敵対する上杉方の諸将を切り崩そうと必死でした。送った書状には、本領の安堵と新恩の地を与えると書かれていたそうです。金子家長はこの懐柔策に乗り、戦が決着する前に後北条方についたのでした。

大きな戦の最中に、すぐ隣の金子氏が敵方となると・・・勢力境の防備を固める必要に迫られます。事態は一刻を争います。

おエライさんの三田氏が命令すれば、一城主が逆らうことなど到底できません。これが今井城の緊急大改修の背景ではないかと、勝手に想像しました。

また、大改修をするとなると、もう1つ考えられる時期があります。1563年にあった北条氏照による三田氏攻めです。金子氏は北条氏照に仕えてから、部将としてめざましい活躍をしていました。北条氏の配下になってからは、三田氏とは対等以上な立場になったと思われます。

ただし、この時は河越夜戦の時ほどの緊急性は感じられません。北条氏照が三田氏を攻め始めるまでに2年の猶予がありましたので。

今井氏が滅びた「天正年中」は、少し早いですが、この時ではないかと思います。三田氏についても、史料によっては「天正の頃」滅びたと記されたものもあります。その事を裏付けるように、三田氏旧臣で組織された清戸三番衆に、今井氏の名前がありません。


所在地:東京都青梅市今井1丁目

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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