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野地城/静岡県浜松市北区

野地城は亥鼻湖東岸の畑の中にありました。
訪問日は2014年8月7日です。

【写】野地城①

Google Mapに道は載っています。しかし、畑の合間にある細いなので、本当にこっちで合っているのか?と不安になります。

【写】野地城②

こうやって見ると、道が堀跡のようにも見えて来ます。どうなんでしょうか?改めて地図を見てみると、道=堀跡っぽいですよね?

【写】野地城③

セメントで舗装されていた農道も、やがてオンロードバイクが苦手な砂利道になります。もう引き返した方がいいかな?なんて思った矢先に、道の先に石碑が見えてきました!

【写】野地城④

この石碑は当たりで、ちゃんと野地城趾と彫られています。すぐ脇のビミョーな地面の窪みが気になります。やっぱり堀跡でしょうか。

主郭はグラウンド、二郭が野地神社になっているそうですが・・・もうちょっとだけ進んだ所にあるようですあせる


◆歴史◆

1583年、徳川家康により築かれました。

徳川家康は1582年にあった天正壬午の乱を制し、甲斐・信濃・駿河を手に入れました。その徳川家康が東海道を行き来する際、立ち寄りやすいよう築いたとされます。当時の徳川家康は浜松城を居城としていました。浜松城そんなに遠くないじゃないか、って思いますが・・・城を築いたのは本多忠勝ラブラブだそうです。

1585年、徳川家康は居城を駿府城へ移しています。駿河を手に入れた時から、駿府へ移ろうという意向があったのかもしれませんね。近くの佐久城主・本多信勝が城主となり、佐久城は廃されました。本多信勝のその後が???です。1590年に徳川家康に従って関東に移ったと思われますが・・・知ってる方ヘルプですあせる

1609年、三浦為春が城主となりました。

三浦為春は勝浦正木氏の出で、1590年に仕えていた北条氏が滅びたため領地を失いました。その後、妹の於万が徳川家康に嫁ぐと、3000石で召し出され家臣となりました。この時に先祖の三浦姓を名乗るようになりました。野地城に入ったのは、於万の子・徳川頼宣が駿府50万石の藩主となったからです。三浦為春は、主・徳川頼宣が紀伊に移る1619年まで城主を務めました。徳川頼宣は紀伊徳川家の祖となり、三浦家が代々家老となります。

1680年、廃城となりました。

三浦為春以後は代官が置かれ、将軍が上洛する際の宿泊所として使われました。いわゆる「御殿」というヤツです。この年代になると、各地にあった御殿が廃止されています。理由は色々あるそうですが・・・
・江戸幕府の体制が固まり、将軍があまり上洛しなった。
・1657年の江戸大火からの復旧に莫大な費用がかった。
などなど。野地城の建物などは、荒井関所(のち新居関所)へ移されました。


所在地:静岡県浜松市北区三ヶ日町野地

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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