2016/06/26
野地城/静岡県浜松市北区
野地城は亥鼻湖東岸の畑の中にありました。訪問日は2014年8月7日です。

Google Mapに道は載っています。しかし、畑の合間にある細いなので、本当にこっちで合っているのか?と不安になります。

こうやって見ると、道が堀跡のようにも見えて来ます。どうなんでしょうか?改めて地図を見てみると、道=堀跡っぽいですよね?

セメントで舗装されていた農道も、やがてオンロードバイクが苦手な砂利道になります。もう引き返した方がいいかな?なんて思った矢先に、道の先に石碑が見えてきました!

この石碑は当たりで、ちゃんと野地城趾と彫られています。すぐ脇のビミョーな地面の窪みが気になります。やっぱり堀跡でしょうか。
主郭はグラウンド、二郭が野地神社になっているそうですが・・・もうちょっとだけ進んだ所にあるようです

◆歴史◆
1583年、徳川家康により築かれました。
徳川家康は1582年にあった天正壬午の乱を制し、甲斐・信濃・駿河を手に入れました。その徳川家康が東海道を行き来する際、立ち寄りやすいよう築いたとされます。当時の徳川家康は浜松城を居城としていました。浜松城そんなに遠くないじゃないか、って思いますが・・・城を築いたのは本多忠勝

1585年、徳川家康は居城を駿府城へ移しています。駿河を手に入れた時から、駿府へ移ろうという意向があったのかもしれませんね。近くの佐久城主・本多信勝が城主となり、佐久城は廃されました。本多信勝のその後が???です。1590年に徳川家康に従って関東に移ったと思われますが・・・知ってる方ヘルプです

1609年、三浦為春が城主となりました。
三浦為春は勝浦正木氏の出で、1590年に仕えていた北条氏が滅びたため領地を失いました。その後、妹の於万が徳川家康に嫁ぐと、3000石で召し出され家臣となりました。この時に先祖の三浦姓を名乗るようになりました。野地城に入ったのは、於万の子・徳川頼宣が駿府50万石の藩主となったからです。三浦為春は、主・徳川頼宣が紀伊に移る1619年まで城主を務めました。徳川頼宣は紀伊徳川家の祖となり、三浦家が代々家老となります。
1680年、廃城となりました。
三浦為春以後は代官が置かれ、将軍が上洛する際の宿泊所として使われました。いわゆる「御殿」というヤツです。この年代になると、各地にあった御殿が廃止されています。理由は色々あるそうですが・・・
・江戸幕府の体制が固まり、将軍があまり上洛しなった。
・1657年の江戸大火からの復旧に莫大な費用がかった。
などなど。野地城の建物などは、荒井関所(のち新居関所)へ移されました。
所在地:静岡県浜松市北区三ヶ日町野地
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