2016/06/23
日比沢城/静岡県浜松市北区
日比沢(ひいさわ?ひびさわ?)城はちょっと場所がわかりづらいです。8月に訪ねた時には場所がわからず、近くまで来たものの撤退。
すぐに調べ直して、9月に再訪したのでした。
訪問日は2014年9月13日です。

日比沢城跡は、ちょっとした丘の上にある住宅街となっています。住宅街・・・というよりは、ミカン畑の中に住宅が集まっている、という感じでしょうか。ここから奥は停められそうになかったので、近くの空き地に停めさせてもらいました。(下の地図の赤い線の左端のもう1つ左にある十字路がココです)

さっきの空き地からまっすぐ東へ進むと、道は右へ曲がり、正面にはミカン畑が見えます。

「失礼しま~す」と中へ進みますが、もちろん城の案内や道など無し。右側に見える大藪が城跡だろうと目星を付け、入って行けそうな所を探しました。

すると、ちょっとだけ藪が薄い所があり、入って行けそうな感じ。手前の窪みは堀跡のようです。

中の藪に入ると木々が鬱蒼と茂っています。自分で「藪」って書いてますからねw肉眼では「あ、土塁


◆歴史◆
遠江後藤氏のお城でした。
遠江後藤氏は、1487年に近江佐々木氏討伐に参戦した、後藤九郎を祖とします。ということで、この頃にはここで暮らしていたようです。後藤氏は、ここいらで勢力のあった浜名氏に従っていました。浜名氏は将軍に直接仕える奉公衆で、浜名湖の北西一帯に勢力がありました。
その後、浜名氏とともに今川氏親に仕えることになるのですが・・・1491年にあった明応の政変により、細川政元、伊勢貞宗らが推す足利義澄が将軍となりました。これにより、今川氏親も勢力を拡大しました。今川氏親のそばに居た伊勢新九郎は、伊勢貞宗とは従兄弟だと考えられています。伊勢新九郎は、後の北条早雲です。この頃の遠江は斯波氏が守護を務め、その前に守護だった今川氏と争っていました。駿河から遠征してきた今川軍は、1509年頃まで伊勢新九郎が率いていたそうです。
1560年、城主・後藤九郎真泰が討死しました。
後藤氏・浜名氏が従っていた今川義元が、桶狭間の戦で討死しました。この時に今川軍に従軍していた城主・後藤九郎真泰も戦死。
翌年には松平元康が今川家から独立し、三河で勢力を拡大しました。松平家康は1565年には吉田城も制圧し、いよいよ遠江に迫ってくる勢いでした。後藤氏は本家が今川方、分家が松平方として分裂しました。
1569年、本家が滅び、分家が城主となりました。
徳川軍の戸田忠次に攻められ、日比沢城が落城しました。佐久城に籠城していた浜名氏も開城し、徳川軍に降伏しました。敗軍の将として徳川家康の前に現れた後藤直正でしたが・・・これまで頑張ってきた意地があったのか、下馬しませんでした。さすがにこれにはキレられ、徳川家康の家臣により射殺されてしまいました。尚、一緒に降伏した浜名頼広は、自分も殺されると思い遁走。甲斐の武田信玄に仕官しましたが断られ、以後行方不明となりました。日比沢城には、徳川家康に味方した分家の後藤実久が入りました。
廃城時期は定かではありません・・・
日比沢城主となった後藤実久については、サッパリわからず・・・1590年に徳川家康が関東に移っており、これに従えばこの時なのでしょう。その後、関ケ原の戦が終わると、先祖代々の土地に戻って来た徳川家臣が結構居ました。残念ながら、後藤氏のその後についてはわかりませんでした

所在地:静岡県浜松市北区三ヶ日町日比沢
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