2016/06/11
石橋城/愛知県新城市
石橋城は慈昌院というお寺になっています。訪問日は2014年8月6日です。

慈昌院を駐車場から見た所です。地形がもう




こんどは山門を。ここが本来の虎口だったかどうかは?ですが・・・坂虎口の奥に門がある感じがして、この雰囲気大好きです



境内から見たお寺の建物です。武家屋敷っぽくて・・・って、さっきからモードが切れず


境内にある説明板に載っている図です。単郭ですね!その周りを土塁と堀で囲まれている様子が描かれています。冷静に落ち着いてちゃんと見れば、誰でもわかりますよね?

境内を囲む土塁です。そこそこの高さがあります。ここにある墓石は城主様達を弔ったものだと思います。
あれ?外側の堀は?って思いますよね?私も思います。「土塁の外は堀」って、城キチなら誰でも知ってる方程式ですが・・・すっかり頭が熱くなって、見ていませんでした(涙)
◆歴史◆
石橋奥平氏の屋敷でした。
石橋奥平氏は、奥平氏2代目当主・奥平貞久の次男・久勝を祖とします。奥平宗家の本拠である亀山城の目と鼻の先に石橋に屋敷を構え、石橋奥平氏と呼ばれました。
1537年、城主一族が討ち果たされました。
石橋奥平氏2代目の奥平繁昌が、謀反を企てたとして討たれました。謀反の理由は???ですが・・・宗家当主の奥平貞勝は、一族で和田貞雄の次男・土佐定雄に討伐を命じました。城内に突入した土佐定雄の軍勢は、城内に居た42名を殺害。1つの穴に全員埋めたそうです。
奥平繁昌の子・太郎次郎は難を逃れ、鳳来寺に匿われていました。それを知った奥平貞勝は、黒屋重広に太郎次郎殺害を命じました。黒屋重広は自らの子らを囮とし、仇討ち話を持ち掛けて太郎次郎を誘い出しました。こうして石橋奥平氏は完全に絶えました。
当時の周囲の状況は、1529年の宇利城攻めの時に従った松平家がグダグダでした。1535年に松平清康が守山崩れで没した後、その大叔父・松平信定が専横しました。跡継ぎの竹千代(=松平広忠)が、まだ10歳になるかどうかでしたから・・・松平信定は岡崎城を乗っ取り、松平家当主に名乗りを上げました。竹千代の存在が邪魔な松平信定は、その命を狙うようになります。東条吉良氏の計らいで、竹千代は吉良氏の所領があった伊勢に逃れています。竹千代が元服して三河に戻ったのは、1540年のことです。
松平広忠が三河に戻ると今川義元が加勢。状況が不利なことを悟った松平信定は、松平広忠に従いました。その後、岡崎城のすぐ西にある安祥城を、織田信秀が攻めました。この小豆坂の戦いでは、奥平貞勝は織田軍に加勢したそうです。
・・・ここいら辺りにヒントがあるのでしょうか?松平信定も織田信秀に近く、婚姻関係にありました。三河に勢力を拡大したい今川義元は、幼い松平広忠の方が都合が良かった筈です。織田・今川の両勢力から誘いがあり、家中で意見が真っ二つに割れたとしたら・・・なんて、妄想は尽きません

城跡に慈昌院が建立されました
徳岩明和尚が奥平貞勝に許しを得て、城跡にお寺を建てました。これが慈昌院の始まりです。年代はわからず

所在地:愛知県新城市作手清岳
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