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亀山城/愛知県新城市

亀山城は奥平氏の本拠地でした。
訪問日は2014年8月6日です。

亀山城①
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本丸にある図です。こうして図を見ただけでワクワクしてきますラブラブ土塁がそれぞれの郭にちゃんと残っており、ほぼ原形を留めていると思われます。郭の配置などを見ると、右側の二の丸方面が大手口に見えますが・・・実際の大手は左上です。お城の左側が「シロヤシキ」という小字になっており、城主様の館があったと思われます。

亀山城②

・・・などとは考えず、なんとなく現地に向かって「どこから入るんだろう?」とウロウロ。事前に準備した地図では、ただお城の位置にマークしただけで、登城路は?状態でした。今は事前にちゃんと調べてから訪ねるんですけどねあせるということで、辿りついたのは北側(図では右側)の二の丸の下です。雰囲気で察しろw的な駐車場があり、そこから城内に入りました。

亀山城③

城内への入口には、ちゃんと案内がありました。しかし・・・すぐ脇には別のお城の名前が恋の矢もう、惑わせないでよw

亀山城④

城内に入ると、すぐに立派な城塁が現れました。これは二の丸のものです。

亀山城⑤

一応道に従って進むと、やがて虎口が見えました。高い土塁に囲まれているようです。

亀山城⑦

ということで、虎口の内側から撮りました。やっぱり土塁ですラブラブ

亀山城⑧

そして二の丸の内側の様子です。草ボーボーですが、背が低い草ばかりなので、放置されている訳ではなさそうです。

亀山城⑨

回れ右をすると、今度は本丸の虎口です。なんだかあっさり辿り着いた感じがしました。山城のように手の込んだお城ではないんですね。

亀山城⑩

本丸内部の様子です。右端には亀山城の看板が立っています。・・・鈍感なので気づきませんでしたがあせるさらにどうしちゃったんだろう?というのが、城址碑を見落としていますw夕暮れ時で余程焦っていたのでしょうか・・・?本人がこんな調子なので、真相は闇の中ですハートブレイク

亀山城⑪

それでも、周りを囲んでいる土塁はちゃんと見えていたようです。何も見えてないんじゃ、危なっかしくて外出歩けませんけどねあせる

亀山城⑫

本丸西側の虎口から外を見た所です。急な坂に腰郭があり、守りが厳重な感じがします。やはり、大手口はこちらですね。

亀山城⑬

虎口から外へ出る途中にあった堀と土塁です。やっぱりこういうの大好きですラブラブ一日走り回って見応えのあるお城に出会うと、いい日だったと思えて来ます^^

亀山城⑭

・・・ということで、そのまま下ってココに出ました。またしても裏登城をやってしまいましたあせる


◆歴史◆

1424年、奥平貞俊により築かれました。

奥平貞俊は上野国甘楽郡奥平から三河へ移って来ました。はじめは川尻城を居城としていましたが、手狭になったため、亀山城を築きました。この時期に、関東から移って来た人がかなり居たんですね!一色城の一色時家は永享の乱で敗れたのが原因でしたが、奥平貞俊はどうだったんでしょうか?

群馬の奥平城
▲群馬県高崎市吉井町の奥平城跡(地図)

この頃の関東は、鎌倉公方と関東管領の対立は無く、将軍と鎌倉公方でやり合っていました。関東には将軍直属の京都扶持衆と呼ばれる武士が居り、反鎌倉公方的な活動をしていました。近い所では、1422年に京都扶持衆・小栗満重が鎌倉公方・足利持氏に討伐されています。

奥平氏の居た甘楽郡一帯は、白旗一揆と呼ばれる武士団がありました。白旗一揆は将軍・鎌倉公方の両者とは距離を置き、状況に応じて立場を変えていました。将軍直轄地の多い三河へ移ったということは・・・将軍に味方するか、鎌倉公方に味方するかで意見が割れ、居場所が無くなったのでしょうか?

1573年、奥平貞昌が長篠城へ移りました。

奥平氏は境目の国衆として、周囲の大勢力に翻弄され続けていました。今川氏親→松平清康→今川義元→徳川家康→武田信玄→徳川家康といった感じです。

1571年に武田信玄に寝返った際には、人質を出しています。その後、1573年に武田軍が三河へ侵攻し、菅沼氏の野田城を攻めました。上洛を目指していた筈の武田軍が、2ヶ月も野田城に留まった後、甲斐へ退却。その直後、奥平貞能は武田信玄の死が確実だとして、徳川家康のもとに帰参しました。徳川家康から相談を受けた織田信長は、婚姻と所領倍増で奥平氏を懐柔することをアドバイス。これを受け、徳川家康は長女・亀姫を、奥平貞能の嫡男・貞昌に嫁がせました。この時期に奥平氏が長篠城へ移っており、長篠菅沼氏の領地が奥平氏に与えられたようです。長篠菅沼氏も徳川→武田に鞍替えしていましたが、うまく時流に乗れなかったんですね。

奥平氏の寝返りに激怒した武田勝頼は、奥平氏の人質3名を処刑。さらには、2年後の1575年に長篠城へ1万5千の大軍で攻めて来ました。これが長篠の戦となり、武田軍は壊滅。奥平氏はこの戦を機に出世街道に乗り、最終的には10万石の大名となりました。ということで、奥平氏の本拠地は長篠城に移ったようです。戦後、奥平貞昌は織田信長から「信」の字を与えられて奥平信昌と改名し、家督を継ぎました。

1590年、奥平信昌が関東へ移りました。

徳川家康の関東移封に従い、上野国甘楽郡宮崎3万石へ移りました。奥平氏発祥の地へ里帰りしたんですね!三河には池田照政(=輝政)が入りましたが、奥平氏の城は使わなかったそうです。

1602年、松平忠明が亀山城に入りました。

奥平信昌の4男・松平忠明が亀山城に入り、作手藩1万7千石を立藩しました。松平忠明は徳川家康の長女・亀姫の子で、徳川家康の養子となり松平姓を名乗りました。1610年には伊勢国亀山5万石へ移り、大阪の陣後の大阪復興で大活躍した人物です。道頓堀の名付け親だそうで、その後も活躍して播磨姫路藩18万石まで出世しました。


所在地:愛知県新城市作手清岳

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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