2016/06/11
文殊山城/愛知県新城市
文殊山城は、奥平氏の本拠・作手の西にあった山城です。訪問日は2014年8月6日です。

文殊山城への道は、市役所の支所脇からのものが地図に載っています。だからこそ、真夏でも「楽に行けそう♪」で訪ねました。でも、道は途中から未舗装に。ひとくちに「未舗装」と書いても色々ですが・・・ここの「未舗装」は、バイクが最も苦手とする「砂利コロコロ道」です。まだ行ける!とタカを括って、ものの見事にすっ転びました(´;ω;`)

さすがにもう無理かと諦め、その場にバイクを停めてそこから歩きました。・・・Uターンじゃない所が鉄砲玉ですwその嗅覚というか勘は当たり、10分もしない内に模擬櫓が見えてきました。歩いてでも進んで正解でしたヾ(*´∀`*)ノ

城内の様子です。単郭で真ん中に物見櫓があります。往時がこうだったとは思えませんが、こういう雰囲気は大好きデス^^

拡大表示
説明板に載っている図です。やはり単郭で、堀と土塁で囲まれたシンプルな造りです。見張り台、烽火台といった所だったようですね。

こういうのが大好きなので、ついつい撮っちゃいます。お城=白亜でない所がイイですね!遺構を傷つけない程度にこんな感じのモノが増えたらいいな、なんて思います。

外周の一部には、こんな感じの低い土塁が残っています

◆歴史◆
元亀年間(1570~72年の間)、奥平氏によって築かれました
麓にあった亀山城を本拠とした奥平氏は、今川・徳川・武田の大勢力に翻弄されました。今川義元が討死した後も、しばらくは今川方として行動しました。その後、松平家康(徳川家康)に従いましたが、1568年頃から武田信玄が今川領を狙います。武田信玄は奥三河の奥平氏や菅沼氏などを調略し、三河へ進出。1571年頃には、奥平貞能も武田信玄に従うようになりました。
現地説明板によると、文殊山城はこの時に和睦の条件として築いたと書かれています。武田軍といえば、烽火ネットワークで有名ですよね。その烽火ネットワークをさらに南へ伸ばしたということでしょうか。もしくは、武田軍が奥平氏の動きを監視する役割もあったかもしれません。
奥平氏はココ文殊山城を、一夜にして築いたと伝わります。なかなか城を築かない奥平氏に対し、武田信玄が強く迫ったためとありました。武田信玄は南の徳川軍、そして奥平氏の両方を監視しようとしていたのかもしれませんね。
その後の歴史に、文殊山城は登場しません。武田信玄に強く言われて渋々築いたものの、1573年に奥平氏は再び徳川方に帰参しました。そして奥平氏は長篠城へ移ったため、ココは完全に存在意義を失っています。
所在地:愛知県新城市作手清岳
愛知県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント