2016/06/08
野田城/愛知県新城市
野田城は、武田信玄が銃撃された噂のあるお城です。訪問日は2014年8月6日です。

現在の野田城は1本の道がすぐ脇を通っており、簡単に辿り着くことが出来ます。端に説明板が設置されており、ちょっと(かなり)鈍い私でも大丈夫でした^^

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その説明板に載っていた図です。川に挟まれた舌状台地に堀切を入れた感じですね。北(図の左側)に備えているのがよくわかります。じゃぁ南(図の右側)から攻めればすぐでは?なんて思いますが・・・現地でそんな目で見ればよかったのですが、地図ではどうやら断崖になってるっぽいです。たぶん、ですけど


わーい着いたヾ(*´∀`*)ノとばかりに図をろくすっぽ見ずに進むと、すぐに堀切が見えました。図の左から右に進んでいるので、1本見落としているのですが


さらに進むと、小さな神社が見えてきました。というよりも、城キチ的には「大きな堀の向こうに」ですがw堀を渡る土橋は細く、しかもまっすぐではありません。こういう細かい所にも工夫が凝らされているんですね!

2郭と主郭の間にある堀切です。上から撮った写真だと大したことないように見えてしまいますが・・・結構深いです


そしてそして、ちゃんとコレもあります!やはり、よそでは見ないオリジナリティ溢れる城址碑ってイイですね



◆歴史◆
1509年より菅沼定則が築きました。
1505年に富永氏からの要請により養子となったのですが・・・富永氏の方が菅沼氏よりも家格は上でしたが、菅沼姓を名乗ることを条件だったそうで。当然富永氏側で反対意見が沢山出て、菅沼定則はなかなか富永氏の元に入れませんでした。そして、ようやく翌年になって館に入ることが出来ました。しかし、富永氏の館は立地が悪く、たびたび洪水にも悩まされるような場所でした。そのため、新たに城を築くことになりました。こうして築かれたのが野田城です。築城には8年の歳月を要し、1517年に完成しました。
1556年、城主・菅沼定村が討死しました。
奥平貞勝や田峯城の菅沼本家が、今川義元を裏切り織田信長方に寝返りました。そのため、今川義元は討伐軍を差し向けたのですが・・・この討伐軍に参戦した菅沼定村が、なぜか後続の無いまま突出。そのまま戦となり、菅沼定村の部隊が全滅しました。
1561年、今川軍に占拠されました。
跡を継いだ菅沼定盈は、今川義元の討死後に独立した松平家康に従いました。東三河では西郷清員が中心となって菅沼氏や設楽氏を誘いました。そのため今川氏真により攻められ、野田城は落城。城主・菅沼定盈は、血縁のあった西郷清員のもとへ逃れました。野田城には、牧野成定の重臣・稲垣氏俊が城代として入りました。
1562年、菅沼定盈が野田城を奪還しました。
年が明けると、奥三河で今川軍と松平軍の攻防が一進一退を繰り返します。情勢は次第に松平方が優勢となり、6月には菅沼定盈が野田城を夜襲により奪還しました。この戦いで、野田城を守っていた稲垣氏俊が討死しています。一連の攻防により野田城は激しく傷んだため、菅沼定盈は大野田城を仮の居城としました。
1571年、武田軍に攻められました。
年明け早々に、武田軍の秋山信友が菅沼定盈の大野田城を攻めました。この時、城主・菅沼定盈は西郷清員、設楽貞通らと力を合わせて撃退しています。しかし、西郷氏の当主・西郷義勝がこの戦で討死しています。秋山信友はその後、各地の菅沼一族を個別に寝返らせて5月に再び攻めて来ました。この時は武田軍を防ぎ切れず、大野田城は大破・落城しました。武田軍撤退後、菅沼定盈は守りの固い野田城を再び本拠にしました。
1573年、武田信玄に攻め落とされました。
武田信玄が上洛のため、3万の大軍で野田城を攻めました。菅沼定盈は1ヶ月に渡り抵抗しましたが・・・武田軍は甲斐から金山掘を呼び寄せ、穴をあけて水源を絶ちました。そのため、菅沼定盈は城兵の助命を条件に開城し、捕虜となりました。
上洛のため挙兵したはずの武田軍でしたが・・・進軍を止めて野田城で足踏みし続けました。さらに1ヶ月後の3月に入ると甲斐へ撤退し始めました。城主・菅沼定盈はこの時、両軍の人質交換で戻されました。
この帰途に、武田信玄が世を去っています。武田氏側の記録では、病死だったとされています。しかし、『菅沼家譜』では武田信玄が銃撃されたような記述があります。ただ、ストレート表現ではなく、「夜銃声がして武田軍が騒がしくなった」だそうです。そこに尾ひれが付いて・・・
美しい笛の音に誘い出された武田信玄が、銃で撃たれて死んだ
なんて伝説が生まれたのだとか。
1574年、菅沼定盈が野田城を奪還しました。
武田軍が撤退した後、徳川家康は長篠城を奪還。菅沼定盈も、自らの本拠である野田城を奪い返しました。その翌年、武田勝頼が攻め込んで来ましたが・・・徳川家康と織田信長の連合軍が、武田軍に大勝しています。
1590年、廃城となりました。
徳川家康が関東へ移封となり、菅沼定盈も上野国阿保1万石へ移りました。三河に入った池田照政は、新城に片桐半右衛門を代官として置きました。野田城はこの時に廃城となり、破却されています。
所在地:愛知県新城市豊島
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