2016/06/05
豊川城/愛知県豊川市
豊川城は光明寺に城址碑があるだけです。訪問日は2014年8月7日です。

光明寺の山門です。たぶん、かつては塀で囲まれていた、と思います。そうでなければ、「なぜここに門?」ってなっちゃいますし。・・・もともとかもしれませんけどw

この門の右手に、愛知縣が建てた城址碑がありますヽ(´∀`)ノ愛知縣、いい仕事します


門の左手には、お寺の説明板があります。設置したのは教育委員会。ただ、この説明の中にお城の事が一切書かれていません。
気・に・な・る(゚∠゚)
◆歴史◆
詳しい事はサッパリ。
光明寺の説明板では、天文年間(1532~55年)に開創されたと書かれています。なので「お寺=城跡」ではなく、豊川城はお寺に隣接していたかもしれません。
『三河国二葉松』には次のように記載されています。
豊川村古屋敷
頼朝卿幼年之時代大江入道定厳住居後
小笠原少目水野佐渡守同八十郎領三千石
全部漢字です

崩して読むと
源頼朝が幼年の時代に大江入道定厳が住んでいた。のちに小笠原少目、水野佐渡守、水野八十郎が3000石を領する、でしょうか。それぞれの人物をググるもサッパリヒットせず…
それでも、この中で一番ヒットしたのが小笠原少目です。それでも出てきたのは豊川神社絡み。年代は書かれていませんが、小笠原少目が豊川に住み、以後地元の名族になったというもの。以後「社殿の造営宝物の寄進に力をそそぎ代々当社を崇敬した」そうです。
この辺りの小笠原氏といえば、三河国幡豆郡や遠江の高天神城の小笠原氏が近い感じです。彼らは1500年代初め、家庭内不和を理由に府中から松尾へ移った小笠原一族です。松尾小笠原氏は1505年に三河へ出兵しており、以後幡豆郡で小笠原氏の名が登場します。高天神城の小笠原氏は、三河国幡豆郡から更に遠江へ移った一族です。
豊川神社の由緒では、1645年に小笠原忠知が青銅製六角形釣燈籠を奉納しています。小笠原忠知は吉田藩主で、府中小笠原氏の子孫です。推測が正しければ小笠原少目とルーツが同じです。同族が崇敬する神社ということで、奉納したのかもしれませんね。
1638年、陣屋が取り壊されました。
小笠原氏の次に名前が挙がっているのが、水野佐渡守と水野八十郎です。彼らもサッパリヒットせず・・・豊川神社の由緒では、1630年に水野佐渡守が刀一口を献納しています。水野佐渡守は1635年に没し、子の代に領地を没収されたとあちこちで書かれています。兄の水野勝成でググると、弟・忠重としてそんな一事がひっそりと書かれているだけです。何があったのかはサッパリです

所在地:愛知県豊川市西豊町(光明寺)
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