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庁南城/千葉県長南町

庁南城は、庁南武田家の本拠地でした。
訪問日は2022年1月29日です。

【位置】庁南城
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庁南城は、細尾根を高土塁に見立てた構造になっています。
主要部は13~16辺りで、そこから東へ段を連ねます。
7がその開口部で、南北の高い尾根で挟まれています。
一見すると無防備に見えますが・・・
細尾根の端は削られ垂直で、攻め口は開口部しかありません。
主要部手前の17に堀切があり、そこから下る道があります。
その下の18に立つと、この城の攻めにくさを実感できると思います。
4~5~20~18~17に道はありますが・・・
麓からだと笹薮に隠れ、道は見えません。
尚、歩いたコースではないのですが、7の南と16の東の谷戸も曲輪です。
1~3の長久寺が城主の居館跡とされています。

【1】庁南城
1 長久寺

まずは西側の長久寺です。
手前に広い駐車場があります合格
主要部の真下にあり、城主様の居館があったと伝わる場所です。
そういう目で見ると、やたらと段差が目に付きます^^

【2】庁南城
2 長久寺背後の尾根

お寺の背後は、北西から東にかけて細尾根に囲まれています。
この細尾根を伝って行けば、主要部に直接行ける!
・・・と、等高線を見ながら思っていました。
そんなルートを開拓しようと鼻息荒く挑みましたが・・・
お寺を囲む細尾根は、こんな風に端が削られ垂直になっています。
現在は少し崩れた箇所があり、行こうと思えば行けなくもなし。
でも、ここは本来の通り道ではないと判断しました。
この尾根の主要部側は、細い竹がビッシリ密生しています。
知らずに登っていたらクローバークローバークローバークローバークローバーで立ち往生するところでした。

【3】庁南城
3 堀切

それでも西側には、こんな堀切があります。
掘り方が薬研堀なので、往時からのものと思われます。
この尾根先端(写真の右方向)に、神明稲荷社があります。

【4】庁南城
4 北の八坂神社

庁南城を訪ねた人は「何もない」「わかんなかった」と言います。
他の城跡と構造がかなり異なっているのは確かです。
訪問前は、削り残しの細尾根が屏風代わりになっているイメージでした。
そんなんでどうやって守るんだろう?と考え込みましたが・・・!
ということで、まずは北側の細尾根沿いに進んでみました。
長久寺から道に出て少し東に行くと、この神社があります。
長久寺の東隣にある谷戸の端がココです。

【5】庁南城
5 北側真下から見た太鼓森

長久寺との間にも細尾根があり、ここも曲輪だったかもしれません。
外に開けている場所なので、曲輪というより根古屋だったかも。
ココから見ると、カックンと大きな段差があるのがわかります。
麓の木と上の木の高さが、ハッキリと違っていますよね?
国土地理院の地図にはここから上がる道が描かれているのですが・・・
道はおろか、踏み跡のかけらも見えず。
正面の藪は、真冬であっても人が歩けるようには見えません。
ただ、先に結論を書くとここに道があります。
後で紹介します♪

【6】庁南城
6 細尾根の断面

城を囲む細尾根は、どこから見ても登れそうにありません。
そんな細尾根の断面を見ることが出来る場所があります。
それがここで、福祉施設の入口となっています。
このザックリが意図的なものか、そうでないのか・・・
削られたのは残念ですが、断面が見えるのはちょっと嬉しいかも。
見た感じ、細尾根の両裾が削られているのがわかります。

【7】庁南城
7 案内

細尾根先端が終わると、谷戸内に入る道があります。
その入口にこの案内があります。
ここまで城域とすると、長辺が500メートル以上あることに。
谷戸の開口部が広いと守りが不安なのですが・・・
周りが田んぼなので、湿地だったのかもしれません。
もしそうだとすると、大軍で押し寄せるのは無理っぽいです^^

【8】庁南城
8 城ノ内

谷戸の開口部からは、段になった広い平坦地が連なります。
一番下のココは、城ノ内と呼ばれる場所です。
・・・名前通りの場所なんですよね、きっと^^
畑になり整地されていますが、こんな雰囲気だったのでしょう。

【9】庁南城
9 細尾根側面

外から見た細尾根は、とても登れる感じではありませんでした。
それは内側から見ても同じです。
両側から削られてるので、基部からでないと進めなさそうです。
細尾根上から敵を狙い撃ちしたのかもしれませんネ!

【10】庁南城
10 堀切と土橋

城ノ内→中城と段になった平坦地を奥へ進みます。
段差が「城跡だなぁ」と感動したのですが・・・
写真を見ると、ただの畑にしか見えずあせる
ということで、次に絵になるのが一気に奥のココです。

【11】庁南城
11 説明板

上総武田家の本拠!ということで、やっぱりあります。
文字もそれなりにあるのですが・・・
要約すると「構造がよくわからん」という感じです。
それでも、ひと際高い太鼓森が主要部だというのは確かなようです。

【12】庁南城
12 堀切断面

真正面から見ると土橋しか見えませんが、横を見るとザックリしてますラブラブ
ココで敵を食い止めるゾ!という決意が見えます。

【13】庁南城
13 妙見社

土橋からは、細尾根状の地形がぐるっと左へ回り込みます。
その上のひと際広い平坦地にある神社が妙見社です。
妙見様と言えば千葉氏が信仰しているイメージですが・・・
まぁ、往時は無くて、後から誰かが祀ったんでしょうあせる

【14】庁南城
14 奥へ続く踏み跡

細尾根で区切った城の上にある、細尾根の上の平坦地。
そんな妙見社にも、さらに奥があります。
妙見社を正面から見て右側の土塁に、歩いた跡が見えます。
きっと何かあるにチガイナシ!

【15】庁南城
15 虎口

そう思い土塁上を進むと、こんな虎口がありました。
・・・きっと往時よりも守りが固くなってますクローバー

【16】庁南城
16 土塁のある櫓台

虎口の奥にも、ちょっと広い空間がありました。
ここは、南側にだけ人の背丈程の土塁があります。
なぜこちら側だけなのかが?ですが・・・
端から見下ろすと、どの方向も断崖に囲まれています。
間違いなく、ここが一番奥ですね!

【17】庁南城
17 太鼓森入口の堀切

さて、ザックリとではありますが、城らしさを実感出来て大満足。
最後に、下からは見つけられなかった隠し通路を探します。
その入口がココです。
見たまんま素直に真っすぐ右斜め前へ進むと、断崖の上で行き止まり。
やっぱりココは通れない?と不安になります。

【18】庁南城
18 庁南城の切岸

しかし、諦めて戻りかけた所で、ジグザグに下りた跡を発見。
堀切から左へ進んだ所から危なげ無く下りられました。
下りた所から見えたのが、この光景です。
構造がわかりにくい庁南城ですが、守りの要はこの高い切岸です。
周囲の細尾根も含め、こんな感じの切岸にほぼ一周囲まれています。
こんなのが東西南北500メートル以上の規模であるなんて・・・
わかりづらいのは、スケールがデカ過ぎたからだと思い知りました。

【19】庁南城
19 下りた所

さて、隠し通路は下りて来ても隠し通路です。
素直に進むと、ちょっとした段の上のここに至ります。
ココから帰ろうと思うと、どうしても正面の民家の庭を通ります。
見ず知らずのオッサンが庭先を通ったら、きっと通報される・・・
やっぱり八坂神社に出る道は無いのか?と諦め掛けました。

【20】庁南城
20 隠し通路

そう思い堀切を登り直そうと思っていたら・・・!
はじめは目もくれなかった密集藪に、人一人通れる程の空間を発見。
偶然の物かと思ったら、曲がりながら奥へと続いています。
真っすぐなら道に見えたのですが、曲げて隠しているようです。
そのまま進んだら、八坂神社のある谷戸に出ました。
出口から振り返っても、通路があるようには全く見えずクローバー
地理院の地図に描かれていた道は、どうやら一方通行のようです^^


◆歴史◆

1456年頃、武田信長により築かれました

武田信長は甲斐出身で、古河公方に仕え上総に来ました。
ここまでの経過だけでも波乱万丈過ぎるので割愛します。
上杉氏勢力を駆逐した武田信長は、上総国守護代となります。
そして、その拠点として築いたのが真里谷城と庁南城です。
自らは庁南城に、長男・武田信高が真里谷城に入りました。
1477年頃に武田信長、武田信高が相次いで没します。
庁南城は武田信高の長男・武田道信、真里谷城は武田信興が継ぎました。
両家は独自に活動しますが、協力関係にありました。

庁南城の武田家は、土気の酒井氏、小弓の原氏と争いました。
特に原氏とは、境を流れる村田川の流路変化で度々争っています。
見かねた真里谷家は、古河公方の子・足利義明を迎えました。
足利義明は出家していましたが、この時に還俗します。
新たな旗頭を迎えた上総武田氏は、里見氏と酒井氏も味方に加えました。
そして原氏から小弓城を奪い、新たな御所としました。

1537年、第一次国府台合戦

小弓公方を迎えた真里谷家が、房総半島の旗頭的存在となります。
突如沸いた大勢力は、隣接する大勢力・後北条家とぶつかります。
初の直接対決となったのが国府台合戦ですが・・・
武勇に絶対の自信を持ち先陣を切った小弓公方が討死します。
「俺に矢は当たらん」などと言ったとか言わなかったとか。
これにより上総・安房の勢力を結んでいた存在が無くなります。
さらに、直後に真里谷家で内紛が勃発。
庁南武田家は真里谷信応を支持しますが敗れます。
後北条家を後ろ盾とした真里谷信隆が復帰します。

1564年、第二次国府台合戦

上総へ勢力を拡大した里見義堯が、国府台で再び後北条軍と戦いました。
第二次国府台合戦は2年連続で2度戦ったと考えられています。
この戦でも後北条軍が圧勝。
庁南武田家は里見家を見限り、後北条家に従うようになります。
しかしその後、里見義堯が上総の失地を徐々に回復。
1567年には三船山合戦で里見軍が後北条軍本隊に圧勝。
庁南武田家は、再び里見家に従うようになりました。

武田信玄の子を養子に迎えます

庁南武田家の跡継ぎが早世したため、後継者問題が勃発。
そのため、武田晴信の子を養子に迎えました。
この時に上総に来たのは、西保三郎(三男)と考えられています。
もしそうであれば武田義信の実弟、武田勝頼の異母兄ということに!
これを裏付ける史料は『上総武田氏系図』だけらしいですが・・・
その後、武田信栄→武田豊信と名乗るようになります。
1581年、里見義頼は後北条家に対抗するため武田家と同盟を結びました。
この時に両家を仲介したのが、この武田豊信です。

1587年、万喜城を攻めました

後北条家が豊臣秀吉と敵対姿勢を鮮明にしました。
そのため、各地の配下に兵を出すよう命じています。
この時、喜城の土岐氏は300騎の兵を出しました。
争っていた武田信豊は、手薄になった万喜城を攻めました。
しかし、これに備えていた土岐軍により撃退されています。

1590年、廃城となりました

小田原征伐の際、武田豊信は様子見に徹しました。
そのため、豊臣秀吉に命じられた徳川軍に攻められます。
庁南城は落城し、武田豊信は自刃したとも、信濃に逃れたともされます。
嫡子の武田氏信は上総月出に退去し、庁南城は破却されました。


所在地:千葉県長生郡長南町長南 GPSログダウンロードページ
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コメント

無題

3年ほど前に行きましたが、あんまり深くまで行かなかったので参考になります。
武田氏の前に、千葉氏の一族である庁南氏が築いたという説もありますし、妙見神社があっても不思議ではないのかも、と思いました。
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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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