2016/05/29
萩城/愛知県豊川市
萩城跡には入ることが出来ませんでした。訪問日は2014年8月5日です。

昔(たぶん)エライ人が言っていました。

「城山の南東麓に標柱が建っており、」 (´▽`*)←これは私の心象描画です

「そこから」 ヽ(´ー`)ノ

「山上に登る道が付いている。」 Σ(゚д゚)

というのは、その当時の事ですね。今(既に2年前

◆歴史◆
築城年代は不明です
『三河国二葉松』では、城主として清家右馬允、内藤十郎市の名が記されています。「清家右馬允」でググっても1件しかヒットせず、「清原右馬允」だと沢山出てきます。どっちなんでしょうね?wこの中の記述で、清家右馬允は嘉吉2年の棟札があるそうで…ということは、1441年当時は萩城主だったということでしょうね。
内藤十郎市はサッパリわからず…額田郡の萩城が内藤氏のお城だったので、誤記なのかもしれません。居たかもしれませんが

奥平氏の城となりました。
『三河国二葉松』では次の城主として、奥平周防守の名が記されています。奥平周防守は、萩奥平家3代目の奥平勝次のことだそうです。萩を本拠としたはずなのに、萩城主は3代目からなんですね?初代は主馬允、2代目は伝五郎です。
萩を領有した最初の奥平氏は、奥平貞久(1395~1475)とされます。奥平貞久は4男・奥平主馬允に萩を分知し、萩奥平家が始まりました。清家右馬允が1441年時点で城主っぽいので、奥平氏はそれ以降でしょう。時期的には、額田郡一揆か応仁の乱で入れ替わったっぽいですね。
では奥平主馬允は萩城ではなく、別のお城を居城としたのでしょうか?萩には萩城の他に城の腰城がありますが、こちらも3代目が築いた事になっています。萩に住まず「萩を領有した」という事だったのかもしれませんね。
奥平氏は「七族五老」という家臣団を形成していました。まとまった領地を持つ国衆は、数人の子に領地を分け与えて各家がだんだん小さくなります。それぞれの家がバラバラで動くようになると、先細りする一方ですよね。奥平氏は領地は分け与えたものの、そうやって出来た支流を宗家がまとめていました。これが「七族」で、奥平氏一門で構成されています。萩奥平家もこの「七族」に数えられています。「五老」は奥平一門以外の重臣たちです。彼らは意見が対立した事もありましたが、最終的には一体となって行動しています。
東三河の国衆は大きな勢力の狭間で、どちらに味方するかで揺れ動きました。
松平清康→今川義元→織田信秀→今川義元→松平元康→武田信玄・勝頼→徳川家康
こんな感じで主家を替えています。武田勝頼を見限った際には、奥平各氏から出されていた人質が処刑されています。尚、この寝返りで武田勝頼は奥平氏討伐の兵を出し、長篠の戦につながりました。結果は、奥平氏にとって吉と出ました。
1590年、奥平氏が関東へ移りました。
徳川家康の関東移封に従い、上野国宮崎3万石に移りました。一族が一丸となって動く氏族なので、みんな一緒に移ったものと思われます。
所在地:愛知県豊川市萩町
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