2016/05/29
城の腰城/愛知県豊川市
城の腰城は、県道脇から登れます。訪問日は2014年8月5日です。

登城口はこんな感じです。道端に木々の切れ目があり、そこに白い標柱がポツリ。

その標柱がコレです。

登った所はこんな感じ。キチンと草が刈られていて、とても綺麗です。でも、城跡に興味が無い人の目には、きっとこれだけで終わり。石垣も天守も何も無いじゃん?と映るのかもしれません。

しかし!あちこち這い回って来た城キチには見えてしまうのです。右側の竹林にこそ、見るべき物がありました。北側の縁に低い土塁が巡っています。

その土塁を辿ってみると、東寄りの所に低い段が。ただ、この石垣?はお城のものではないと思われます。…でも、保険で撮っちゃうんですよねw

東の端には高い土の壁。これも土塁です。城の腰城は、県道を造る際に一部が削られたそうです。本当はこんな感じの土塁がもっとあったのかもしれません。

登城口に戻って高土塁の向こう側に回ると、切り通しの道が通されています。削り口を見る限りは重機でガッツリ削った感じ。しかし、この左脇に土塁があるので、元々ここに空堀があったのは間違いありませんね。
◆歴史◆
萩奥平氏の城でした。
永禄年間(1558~70年)に萩奥平氏3代目・奥平周防守が城主だったと伝わります。萩には萩城という山城があり、奥平氏以前からあったようです。ただ、城主としてはここと同じく、奥平周防守の名だけが記されています。萩奥平氏は初代が主馬允、2代目は伝五郎、3代目が周防守です。萩を本拠としたはずなのに、城主は3代目からです。萩に住まず「萩を領有した」という事だったのかもしれません。
奥平氏は「七族五老」という家臣団を形成していました。萩奥平氏はこの「七族」に含まれ、奥平宗家の軍事を担う重臣でした。彼らは意見が対立しても、最終的には一体となって行動しています。
奥平氏は三河・遠江の境目の国衆であり、たびたび主家を替えました。武田勝頼から徳川家康に鞍替えした際、各奥平家から出されていた人質が処刑されています。武田勝頼はその後、さらに奥平氏討伐の兵を挙げて攻め込んで来ました。これが長篠の戦につながり、歴史が大きく動きました。奥平氏はこの時の奮戦により、陪臣に至るまで徳川家康から直接言葉を掛けられたそうです。さらには徳川家康の長女・亀姫が奥平信昌に輿入れし、亀姫の子は松平姓を許されました。
1590年、奥平氏が関東へ移りました。
徳川家康の関東移封に従い、奥平氏も上野国宮崎3万石へ移りました。その後、奥平氏は10万石の大名となり、豊前国中津で明治を迎えました。
所在地:愛知県豊川市萩町
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