2016/05/28
長沢城/愛知県豊川市
長沢城は長沢松平氏の本拠地でしたが、遺構は期待できません。訪問日は2014年8月5日です。

まずは城址碑から。国道1号の北側が10m程高くなっていて、住宅街となっています。城跡はこの辺りですが・・・城址碑は住宅街の中ほどにあるので、場所がとても分かりづらいです。まずは住宅街南端のこんな感じの所を探して下さい。そのすぐ西側にカーブミラーがあるハズです。

そのカーブミラーから城址碑のある通りを見たところです。城址碑は2件目の家の角にあるのですが・・・けっこう近くから見ているはずなのに、死角になって見えませんね


木や電柱の陰にあって見えなかった城址碑です。しかし、なぜ住宅街に入り込んだ場所にあるのかが謎です。せめて南の見通しのよい道沿いに建てて欲しかったですね。

次は、長沢小学校の角にある説明板です。国道沿いに小学校がありますが、その1本奥の道沿い、小学校の南東の角です。・・・やはり文章だと表現が難しいですネ


せっかくなので^^

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こうして図を見ると、かなり大規模です。堀も三重に巡らせ、説明板にあるように重要な拠点だったことを物語っています。しかし、それ程のお城が跡形もなく無くなってしまうなんて、時の流れは残酷ですね。
◆歴史◆
築城年はよくわからず・・・
長沢の地には、鎌倉時代には番場氏、室町時代には関口氏が居ました。関口氏は、吉良氏から派生した今川氏の庶流です。今川氏一門として重きをなし、また室町幕府奉公衆を兼ねるなどしていました。今川氏親の頃に駿河に移り、持舟城を築いています。松平元康の正室・築山殿は、関口親永の娘です。
関口氏の後に長沢に入ったのが、松平氏でした。1458年、松平信光が関口一族である長沢四郎の城を夜襲により奪いました。この時に奪った「長沢の城」が登屋ヶ根城なのか、岩略寺城なのか、長沢城なのかは?です。松平信光は、子の親則を長沢に配置しました。長沢に入った松平氏が拡張したのが、ココ長沢城です。この時に新たに城を築いたのか、既にお城があったのかも?ですが

1546年頃、今川義元の城になったと思われます。
松平広忠が今川義元に差し出す筈だった人質・竹千代が、織田信秀の元に送られました。これは田原城主・戸田康光の翻意であり、怒り狂った今川義元は戸田康光を攻め滅ぼしました。その余勢を駆って西三河にまで攻め込んだようで、以後、長沢に今川家臣が置かれました。はじめは牧野田三郎、後に匂坂長能が城番を命じられます。匂坂長能は城の普請も行っており、この時に築かれた可能性もありそうです。
1561年、松平元康により攻略されました。
今川義元の討死により、松平元康が今川家から独立しました。松平元康は三河国内にある今川方の城を攻め、長沢の地にも兵を送りました。この時に長沢の地を守っていたのが、糟谷善兵衛と小原藤十郎でした。糟谷善兵衛は登屋ヶ根城を守っていたので、小原藤十郎が岩略寺城か長沢城でしょうか・・・今川勢を駆逐した松平元康は、長沢を深溝松平家の松平伊忠に守らせました。尚、長沢松平家の松平康忠は翌年元服し、宝飯郡小坂井(牛久保の南)を与えられています。長沢には城主を置かなかったのでしょうか?
尚、松平元康の独立により、人質交換で帰された正室・築山殿は岡崎城外に幽閉されました。今川氏に血縁があるというよりも、姑・於大の方との争いが原因のようです。一方、築山殿の父・関口親永は、今川氏真に疑われてしまい切腹。領地だった駿河国持舟の4万2千石は没収され、関口氏は没落しました。
その後はわからず・・・
長沢は西三河と東三河の境にある重要拠点でした。そのため、徳川家康が1566年に三河統一を果たすと、役割を終えたのかもしれません。
ただ、すぐ東の遠江はまだ今川氏真の勢力圏でした。浜名湖西岸の宇津山城には今川家重臣の小原鎮実が居り、今川家のために戦っていました。徳川家康が遠江の今川氏真を攻略したのが1569年で、その頃には完全に役割を終えています。
1634年、長沢御殿が築かれました。
御殿とは、将軍が鷹狩りや上洛する際の宿泊施設で、江戸時代には各地に築かれました。この御殿の跡地にあるのが、長沢小学校なのだそうです。図では、御殿の南側に東海道があるので、説明板のある道がそうだったようです。
しかし、江戸時代中期になると上洛することもなくなり、廃止されたものが多かったそうです。上の図は元禄12年(=1699年)に描かれたものですが、まだ残っていたようですね。この時期に描かれた絵図では、御殿が無いか、「御殿跡」と記載されるものが多々あります。長沢御殿もこの時期に廃されたものと思われます。
所在地:愛知県豊川市長沢町
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