2016/05/25
岩略寺城/愛知県豊川市
岩略寺城は山城ですが、すぐ近くまで舗装道が整備されています。訪問日は2014年8月5日です。

岩略寺城はガッツリ山の上にありますが、城跡手前まで立派な舗装道があります。なので、オンロードバイクの私でも大丈夫ですが・・・愛知県でもコレあるんですねw開けたらちゃんと閉めましょう。

で、どこにあったか忘れましたが、道端にコレがあります。迷子レベルが高めの私には、とてもありがたいモノです


山道をズンズン登ると、やがてこんな場所に出ます。広いスペースに大きめの白い板。バイクで来れるのはここまで。あとは自分の2本の足で登ります。

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その大きな白い板に描かれている図です。綺麗でとても


登り始めの登城路です。綺麗に整備されています。ただ、もともとこんなに広かったのかはちょっと?です。

これが図のどの辺りだったのかは記憶にありませんが・・・撮った写真の時系列では、登城口から南郭の間にありました。

最初の大きな郭が南郭です。

どの郭か忘れましたが・・・右端の方に白い標柱があり、そこに遺構があります。わかりますか?

あとは、主郭に辿り着くまでにいくつか井戸がありました。こんな感じでロープに囲まれた深い穴がポッカリ。水の手が豊富だったんですね!
で、1つ前の遺構は土塁です。ちょっと意地悪しましたw

で、井戸から進路に目を向けると、いかにも虎口っぽい感じ!

おっしゃ!主郭!・・・と思ったら、「井戸曲輪」だそうで


で、出るタイミング失っていた主郭です。やっぱり広いですネ!

主郭も低い土塁に囲まれています。全般的に折れや堀が少ない感じで、古い感じな造りです。長沢松平氏が東海道沿いに立派な要塞を築いたので、それ以前のお城だと思います。
◆歴史◆
文安年間(1444~49年の間)、関口氏により築かれました。
関口氏は吉良氏から派生した今川氏の庶流で、長沢を分与されたことから始まった氏族です。もともとは低い台地上にある登屋ヶ根城に居たと思われますが・・・この時期に山城を築いています。年代的には三河守護が一色氏から細川氏に代わった時期です。その経緯が経緯なので、一色氏の残党が各地で不穏な動きをしていました。自分の身は自分で守らなければ、ということでの築城だったのだと思います。
1458年、松平信光に奪われました。
松平信光により長沢の地が攻められ、関口氏は本拠地を失いました。攻められたのが岩略寺城なのか、登屋ヶ根城か、長沢古城かは?だそうです。関口氏が駿河へ移ったのが、このためなのかどうかも?です

1547年、今川義元の城となりました。
この年、田原城の戸田康光が今川義元に滅ぼされました。これは戸田氏が引き起こした大事件によるもので、自業自得と言えばそれまでですが・・・アテが外れてしまったようです。その事件とは、今川義元に渡される筈だった人質・松平竹千代を、織田信秀に売った事です。戸田康光は松平広忠・織田信秀と結ぶことで、三河・尾張連合を作ろうとしたのかも。それでも松平広忠は戸田・織田両氏には向かず、戸田康光は今川義元に滅ぼされました。岩略寺城には、今川義元により牧野田三郎が配置されました。
「牧野田三郎」は数人居ますが、年代が合うのは牛久保城主・牧野保成と思われます。牧野氏は今川氏寄りで、戸田氏とは数十年もの間争い続けていました。その後も城番を代えながら、今川義元が支配し続けました。
1561年、松平家康により攻略されました。
今川義元が討死した後、松平元康は今川家から独立し、三河の今川方の城を攻めました。はじめは西三河で牧野成定が城代を務めた西尾城、吉良義昭の東条城などです。次第に東に勢力を拡大すると、深溝松平家の松平伊忠を長沢に置きました。「長沢」なんですよね・・・
「○○松平家」というと、その○○城にずっと居たなんて錯覚に陥ります。でも、その○○は発祥の地であって、ずっとそこを居城とした訳ではありません。じゃぁそこんとこどうなの?って必死でググるのですが・・・「○○城」について書かれているのは「○○松平家」の事ばかり。その時々でどこを居城としていたかなんて、ひと言も触れられていません。・・・ということで、これからググられる側になるのですが、そこんところサッパリです



廃城時期はサッパリわかりません。東海道沿いに大規模な長沢城が整備されたのですが、敵に押さえられると面倒・・・ということで、そんな心配が無くなる1590年頃ではないかと思います。
所在地:愛知県豊川市長沢町
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