2013/04/21
網代城/東京都あきる野市
奥多摩の山城シリーズ第2週めの3発めは網代城!・・・あきる野って奥多摩じゃなくて西多摩ですかね?
ふと疑問に思ってググッたらそんな感じでした


▲貴志嶋神社の鳥居
網代城へは貴志嶋神社から登る!漠然とそんな感じで神社を目指しました。この赤い鳥居の直前に車止めがあったので、そこで下馬。鳥居の所で道が2つに分かれています。さて、どっちから行ったものかと散々悩みました。楽な方がイイ!と左へ進みました。左の道ってすぐに右へ大きくカーブしてますよね。・・・そう、その通り!2つの道はすぐに合流するのですw

▲案内図(拡大)
少し進んだ所に案内図がありました。「網代弁天山園地」と銘打っていますが、ちゃんと城跡も載ってます!レアな私みたいのをヒトとして扱ってくれたように感じられ、感激しましたw・・・でも、城跡だけずいぶんと離れた所に描かれています


▲最初の分岐
そのすぐ先で道が分かれています。左はメジャーな貴志嶋神社へ、右はレアな城跡へ。そういえば、右の道って何だか怪しげな雰囲気漂ってます。

▲2つめの分岐
更に進むとまた分かれ道。左は弁天山山頂へ。右は城山へ。心なしか城山を指す板が新しいような・・・小さな事を気にするのはやめましょうw

▲登城路
上の案内板までは全般的に緩やかな道でした。ハイキングコースといった感じです。しかし、分岐からは山城へ向かうといった感じに豹変します。坂も段々キツクなり、時々だった階段がどんどん増えていきます。
本格的な上り坂になると、頭上注意の貼り紙が目立つようになります。木の枝が垂れ下がって、頭に当たるというのでしょうか。かな~り背が高くないと当たらなそうでしたが。。。
それよりも、足元の方が注意が必要です。土がサラサラしてて、とても滑りやすいです。
登る時もそうですが、むしろ下る時の方が滑ります。帰りに尻餅をついた回数は、両手で余る位です。

▲主郭
きつい坂道も一旦は緩い傾斜になりますが、主郭手前で再びキツくなります。そこを乗り越えるとパッと開けた場所に出ます。ここが主郭です。鳥居の所から約20分で辿り着きました。

▲説明板
お決まりの説明板。・・・と言いたいですが、網代城については東京都のものはありませんでした。それでも何でも、図まである親切な説明板はとてもありがたいです!
この図を見ると結構遺構がありそうに見えますが・・・実際の所、どこが遺構なのかはよく分かりませんでした。まだまだ見る目がないのでしょうか

◆歴史◆
網代城も築城年や築城者はわかりません。そもそも、元々は武士が軍事拠点として築いたものではないという説もあります。
説明板によると、重税を一時的に逃れようと近在の農民が利用していたのだとか。これもあくまで1つの説だというのですが。この農民の集まりこそ「武州南一揆」。在地土豪達の集合体です。彼らは特定の勢力につくことはなく、その時の状況により立位置を変えて生き延びました。
代表的な例が1416年にあった上杉禅秀の乱。この乱では当初禅秀方であった南一揆も、旗色が悪くなると幕府方に寝返りました。きっとこれだけが原因ではないのでしょうが、禅秀は敗れてしまいました。
その後、あきる野一帯は武蔵守護代の大石氏の勢力範囲となりますが・・・大石氏は領国経営が苦手であったと言われており、南一揆は独自色を保ち続けていました。
1546年に後北条氏が扇谷上杉氏を滅ぼすと状況が変わります。大石氏も他の勢力同様に後北条氏の軍門に降りました。そのため、その旧領は安堵されたものと思われます。
しかし、1559年に後北条氏は大石氏の乗っ取りを図ります。北条氏康の3男・氏照を大石氏の養子にして家督を継がせたのです。この直前頃から、後北条氏は南一揆の解体を進めました。ある者は所領を安堵され、またある者は滅ぼされ・・・
この頃から大石氏の前当主・大石定久の消息がわからなくなります。名族の当主が没年すら不明なのですからw
網代城が北条氏により整備されたのは、1567年頃だと思われます。この頃から、檜原街道沿いに烽火台ネットワークを整備する動きがありました。西端にある檜原城から約5kmおきに整備しており、網代城は戸倉城の東約5kmの所にあります。
結局、武田信玄は別のルートから攻め込んだので、役に立つ機会はありませんでしたが。烽火台として位置づけられたであろう網代城。その警備?には、南一揆出身の貴志氏や高尾氏が当たったそうです。
1590年に後北条氏が滅びたことで、その役割を終えました。
所在地:東京都あきる野市高尾
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