fc2ブログ

西川城/愛知県豊橋市

西川城(にしがわじょう)は、大福寺の裏山にありました。
訪問日は2014年8月7日です。

西川城①

ここも城跡がお寺かぁ・・・と、そのお寺を目印に訪ねました。しかし、お寺もお城も案内は無く・・・地図と睨めっこしてて、目印になりそうなのはココです。大福寺の南西の角で、Google Mapのストリートビューでは看板の文字が潰されています。

西川城②

その角にある小屋のすぐ左脇に、山中へ入っていく怪しげな道があります。私はここから入ってみました。

西川城③

斜面を斜めに上がっていく道を登ると、上はこんな感じでした。どうやら山上は郭の跡のようで、縁が土塁っぽくなっていました。

西川城④

その郭は現在は栗畑になっています。栗の実がなってると泥棒と間違えられそうで、ちょっと気が引けます。こんな場所なので、秋には入らない方がいいですね。

西川城⑤

そんな感じでちょっと居心地が悪かったので、まっすぐ突っ切って南側に出ました。すると、斜面にこんな感じで道が付けられています。地図でココは「カタクリ山」と表示されているので、人が入る前提なのかもしれません。それならそうと・・・と、結果的にいつも通り裏から入ったヤツがぼやきますあせる

西川城⑥

南側の斜面を下ると、お墓の脇がこんな感じになっています。だいぶ埋まってしまっていますが、横堀のようです。

西川城⑦

北側からまっすぐ南に抜けて、ちょっと下った後にこの写真。時系列ではそんな順番でこの写真が出てきました。ここは皆様のサイトでよく載っている虎口と思われます。両脇の土塁がかなり低くなってしまっており、痕跡のような感じになっています。



私はお城の説明板を見つけられなかったのですが・・・よそ様のサイトでは「北側の斜面にある」と書かれており、写真では道端にあるようでした。せっかく行ったのに見つけられず悔しいので、せめてもとストビューで探してみました。結局、説明板は見つけられませんでしたが、気になる風景がありました。城の北東にあるT字交差点脇に、見るからに堀跡っぽい所が。どのサイト様にも載っていませんが、もしかしたらもしかするのでしょうか?詳しい方ヘルプですあせる


◆歴史◆

西郷清員により築かれました。

築城時期は天文年間(1532~55年の間)とされます。西郷清員が1533年生まれなので、天文の末頃でしょうか。三河の西郷氏にはいくつかの家系があり、本家は守護代も務めた家柄です。岡崎周辺を本拠としており、松平信光の勢力拡大に抵抗していました。最終的には松平信光の軍門に降り、その五男・光重を養嗣子に迎えました。西郷清員の家系は、三河国最東部の八名郡を本拠とする西郷氏の庶流です。

1562年、今川軍に攻められ落城しました。

今川義元が1560年に討死した後、西郷清員は早い段階から松平元康に従いました。西郷清員は血縁のあった野田城の菅沼定盈、川路城の設楽貞通らも松平方に誘いました。東三河で多くの土豪達が今川家を見限ったのは、西郷清員による所が大きかったのです。怒り狂った今川氏真は、吉田城に居た彼等の人質を串刺しにして処刑。さらには大軍を率いて攻めて来ました。

西郷氏は、本拠の月ヶ谷城や五本松城などを攻め落とされてしまいました。西川城は・・・どうなんでしょう?西郷清員は松平家への人質として岡崎城に居たため、難を逃れています。父・兄ともに討死したため、松平家康から家督を継ぐよう命じられました。しかし、西郷清員は頑として聞かず、兄の遺児・義勝に家督を継がせました。

1571年、西郷義勝が討死しました。

年明け早々に、武田軍の秋山信友が菅沼定盈の大野田城を攻めました。この時、城主・菅沼定盈は西郷清員、設楽貞通らと力を合わせて撃退しています。しかし、西郷氏の当主・西郷義勝がこの戦で討死。徳川家康は、今度こそ西郷清員に家督を継がせようとしました。西郷清員はそれでも固辞し、子の家員が宗家の家督を継ぎました。

秋山信友はその後、各地の菅沼一族を個別に寝返らせて5月に再び攻めて来ました。この時は武田軍を防ぎ切れず、大野田城は落城しました。武田軍撤退後、菅沼定盈は守りの固い野田城を再び本拠にしました。

1573年、武田信玄が三河に攻め込みました。

武田信玄が三河に攻め込み、野田城を攻め落としました。城主・菅沼定盈は捕虜となりましたが、戦後の人質交換で戻されました。武田信玄は野田城で足踏みしたまま上洛せず、甲斐へ戻る途中で世を去りました。武田軍が撤退してから徳川軍が野田城を奪還するまで、菅沼定盈は西郷清員の元に居ました。

1578年、西郷義勝の未亡人が徳川家康の側室となりました。

1571年に討死した西郷義勝の未亡人・お愛が、徳川家康の側室となりました。後に徳川秀忠や松平忠吉を生む西郷局となります。

1590年、廃城となりました。

徳川家康が関東移封に従い、西郷家員も下総国生実(おゆみ)へ移りました。小弓公方ゆかりの地なんて、渋過ぎます(>∀<)

1661~97年の間、城跡に陣屋が置かれました。

吉田藩主・小笠原長矩が、弟・小笠原長秋に2000石を分知し、陣屋が置かれました。


その他

どうやら城跡のあるカタクリ山は、地主様が好意で開放して下さっているようです。ただし、駐車できる場所がわかりづらく、よく苦情があるそうです。地主様のサイトを見つけましたので、駐車場情報など参照して下さい。


所在地:愛知県豊橋市石巻西川町

愛知県の城跡/なぽのホームページを表示

コメント

非公開コメント

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR