2016/05/22
西川城/愛知県豊橋市
西川城(にしがわじょう)は、大福寺の裏山にありました。訪問日は2014年8月7日です。

ここも城跡がお寺かぁ・・・と、そのお寺を目印に訪ねました。しかし、お寺もお城も案内は無く・・・地図と睨めっこしてて、目印になりそうなのはココです。大福寺の南西の角で、Google Mapのストリートビューでは看板の文字が潰されています。

その角にある小屋のすぐ左脇に、山中へ入っていく怪しげな道があります。私はここから入ってみました。

斜面を斜めに上がっていく道を登ると、上はこんな感じでした。どうやら山上は郭の跡のようで、縁が土塁っぽくなっていました。

その郭は現在は栗畑になっています。栗の実がなってると泥棒と間違えられそうで、ちょっと気が引けます。こんな場所なので、秋には入らない方がいいですね。

そんな感じでちょっと居心地が悪かったので、まっすぐ突っ切って南側に出ました。すると、斜面にこんな感じで道が付けられています。地図でココは「カタクリ山」と表示されているので、人が入る前提なのかもしれません。それならそうと・・・と、結果的にいつも通り裏から入ったヤツがぼやきます


南側の斜面を下ると、お墓の脇がこんな感じになっています。だいぶ埋まってしまっていますが、横堀のようです。

北側からまっすぐ南に抜けて、ちょっと下った後にこの写真。時系列ではそんな順番でこの写真が出てきました。ここは皆様のサイトでよく載っている虎口と思われます。両脇の土塁がかなり低くなってしまっており、痕跡のような感じになっています。
私はお城の説明板を見つけられなかったのですが・・・よそ様のサイトでは「北側の斜面にある」と書かれており、写真では道端にあるようでした。せっかく行ったのに見つけられず悔しいので、せめてもとストビューで探してみました。結局、説明板は見つけられませんでしたが、気になる風景がありました。城の北東にあるT字交差点脇に、見るからに堀跡っぽい所が。どのサイト様にも載っていませんが、もしかしたらもしかするのでしょうか?詳しい方ヘルプです

◆歴史◆
西郷清員により築かれました。
築城時期は天文年間(1532~55年の間)とされます。西郷清員が1533年生まれなので、天文の末頃でしょうか。三河の西郷氏にはいくつかの家系があり、本家は守護代も務めた家柄です。岡崎周辺を本拠としており、松平信光の勢力拡大に抵抗していました。最終的には松平信光の軍門に降り、その五男・光重を養嗣子に迎えました。西郷清員の家系は、三河国最東部の八名郡を本拠とする西郷氏の庶流です。
1562年、今川軍に攻められ落城しました。
今川義元が1560年に討死した後、西郷清員は早い段階から松平元康に従いました。西郷清員は血縁のあった野田城の菅沼定盈、川路城の設楽貞通らも松平方に誘いました。東三河で多くの土豪達が今川家を見限ったのは、西郷清員による所が大きかったのです。怒り狂った今川氏真は、吉田城に居た彼等の人質を串刺しにして処刑。さらには大軍を率いて攻めて来ました。
西郷氏は、本拠の月ヶ谷城や五本松城などを攻め落とされてしまいました。西川城は・・・どうなんでしょう?西郷清員は松平家への人質として岡崎城に居たため、難を逃れています。父・兄ともに討死したため、松平家康から家督を継ぐよう命じられました。しかし、西郷清員は頑として聞かず、兄の遺児・義勝に家督を継がせました。
1571年、西郷義勝が討死しました。
年明け早々に、武田軍の秋山信友が菅沼定盈の大野田城を攻めました。この時、城主・菅沼定盈は西郷清員、設楽貞通らと力を合わせて撃退しています。しかし、西郷氏の当主・西郷義勝がこの戦で討死。徳川家康は、今度こそ西郷清員に家督を継がせようとしました。西郷清員はそれでも固辞し、子の家員が宗家の家督を継ぎました。
秋山信友はその後、各地の菅沼一族を個別に寝返らせて5月に再び攻めて来ました。この時は武田軍を防ぎ切れず、大野田城は落城しました。武田軍撤退後、菅沼定盈は守りの固い野田城を再び本拠にしました。
1573年、武田信玄が三河に攻め込みました。
武田信玄が三河に攻め込み、野田城を攻め落としました。城主・菅沼定盈は捕虜となりましたが、戦後の人質交換で戻されました。武田信玄は野田城で足踏みしたまま上洛せず、甲斐へ戻る途中で世を去りました。武田軍が撤退してから徳川軍が野田城を奪還するまで、菅沼定盈は西郷清員の元に居ました。
1578年、西郷義勝の未亡人が徳川家康の側室となりました。
1571年に討死した西郷義勝の未亡人・お愛が、徳川家康の側室となりました。後に徳川秀忠や松平忠吉を生む西郷局となります。
1590年、廃城となりました。
徳川家康が関東移封に従い、西郷家員も下総国生実(おゆみ)へ移りました。小弓公方ゆかりの地なんて、渋過ぎます(>∀<)
1661~97年の間、城跡に陣屋が置かれました。
吉田藩主・小笠原長矩が、弟・小笠原長秋に2000石を分知し、陣屋が置かれました。
その他
どうやら城跡のあるカタクリ山は、地主様が好意で開放して下さっているようです。ただし、駐車できる場所がわかりづらく、よく苦情があるそうです。地主様のサイトを見つけましたので、駐車場情報など参照して下さい。
所在地:愛知県豊橋市石巻西川町
愛知県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント