2016/05/22
二連木城/愛知県豊橋市
二連木城は戸田宗光が勢力拡大のために築いたお城です。訪問日は2014年8月7日です。

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公園南側の入口にあった説明板に載っている図です。例によってまたしても裏側からの登城となりました。

初めに辿り着いたのは、お城の北側((図中の上の方)でした。道沿いに公園があり、その奥に土の壁が聳えています。まさか、こんな住宅街で直登って訳にはいかんよな、という心配は杞憂で階段があります。

登り切ったらただの公園かぁ・・・と思ったのはほんの束の間。恒例のぐるっと一周で反時計回りにウロウロしたら・・・

南西側に土塁がありました(*´▽`*)土塁に沿って歩く内にいつしか

公園の外へ。

改めて公園に入り直すのでした。

公園の南の入口付近には、立派な説明板?が。一番上の図はここにあります。

そして、もはやどこをどう歩いたか覚えていませんが土塁に沿って歩くと

城址碑発見。意外と見どころ満載なのでした



◆歴史◆
1493年、戸田宗光により築かれました。
知多郡から渥美郡へ入った戸田宗光は、分郡守護の一色氏を圧迫して勢力を拡大しました。渥美郡では田原城を拠点としていましたが、この年に対岸の宝飯郡で事件がありました。波多野全慶が主の一色時家を殺し、同じ一色時家の家臣・牧野古白と戦いになりました。戸田宗光はこれを好機と捉えたのか、渥美郡北部に二連木城を築きました。後世の動きを見ると、渥美郡北部はもともとは牧野氏の勢力圏だったのかもしれません。
1505年、牧野古白が今橋城を築きました。
一色時家の仇討ちをして宝飯郡の領主となった牧野古白が、川を越えて今橋に城を築きました。二連木城とは2km弱と至近距離にあり、戸田氏と牧野氏による泥沼の攻防が始まりました。翌年には牧野古白が今橋城を攻められて自害しています。この時に今橋城を攻めたのが誰なのか、諸説ありわかっていません。候補に挙がっているのは戸田宗光をはじめ、今川氏親、松平長親などです。
1547年、田原城の戸田康光が今川義元に滅ぼされました。
戸田康光が松平広忠から預かった人質の竹千代を、織田信秀に売ってしまいました。本当は駿府の今川義元の所へ行くはずでしたが・・・これに激怒した今川義元は、大軍で攻め寄せて田原城の戸田康光をあっさり滅ぼしました。二連木城主で戸田康光の次男・戸田宣光は今川義元に従い、命脈を保ちました。後に戸田宣光は徳川家康に従い、戸田氏の宗家となります。
1564年、城主・戸田重貞が松平家康に従いました。
今川義元が討死した後、松平家康(元康から改名)が今川家から独立しました。松平家康は三河国内の今川方の城を攻め、勢力を拡大しました。当時の戸田氏は今川氏真に従っていましたが・・・仲の良かった吉田城代・小原鎮実のスキを衝き、人質となっていた母を奪還しました。人質を取り戻した戸田重貞は、松平陣営に鞍替えしました。翌年には吉田城も陥落し、松平家康による三河統一が達成されました。ただ、この吉田城攻めの際に戸田重貞は討死してしまいました。家督は戸田重貞の弟・忠重の子・戸田康長が継ぎました。戸田康長はこの時まだ2歳か3歳の幼子でした。
1571年、武田信玄に攻められ落城しました。
武田信玄が徳川領内に攻め込んで来ました。はじめは遠江の高天神城を攻めましたが、守りが固く一度撤退。次は伊那路を通り、奥三河から攻めて来ました。吉田城(今橋城から改名)を攻めたものの守りが固く、二連木城がターゲットとなりました。二連木城は落城したものの、長期戦となることを嫌った武田信玄は撤退しました。
1590年、廃城となりました。
徳川家康が関東へ移り、二連木城主・戸田康長も武蔵国東方(深谷市)1万石へ移りました。吉田城には池田照政(池田輝政)が15万2千石で入りました。二連木城は吉田城から至近距離にあるため、廃城とされました。
所在地:愛知県豊橋市仁連木町(大口公園)
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