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吉田城/愛知県豊橋市【1回目】

吉田城には復興された鉄櫓があります。

訪問日はだいぶ前の2007年5月4日ですあせるあせるあせる

※続日本100名城スタンプについては、2回目のブログをご参照下さい。



吉田城①

公園内にあった図です。こうやって見ると単郭っぽく見えますが、周りが無くなっちゃっただけです。図の周りに沢山描かれているマークは、石垣で見つかったものです。天下普請で築かれた石垣ではよく見られるのですが、吉田城が?って思いますよね?吉田城の石垣は、名古屋城を築いた時のものを流用しているのだそうです。

吉田城②

同じ説明板に載っている「略図」では、南と南東にも郭が描かれています。こうして見ると、南北に長い縄張りだったんですね!ただ、これは約1km東の二連木城が廃されてからの構造です。築城当時はこの東西2つのお城の間で、数十年にも渡って激戦が繰り返されていました。

吉田城③

復興された鉄櫓です。 ※復興:元あった場所にそれっぽいものを建てること足元がちょっとアレですがあせる石垣も何積み???って感じですね。ただ、さりげなく左側に土塁が写ってマスラブラブ

吉田城④

でも、背後の川に架かる橋からはいい感じ♪あちこちで見かけるナンチャってっぽい雰囲気は置いといて・・・コレを書くにあたり色んなサイトを拝見すると、堀や石垣、土塁等が多数残っています。機会があれば(いつ来るんだ?w)、ちゃんと見直したい所です。


◆歴史◆

1505年、牧野古白により築かれました。

牧野氏は出自が諸説あるようですが、牧野古白の親の代にどこかから三河に来たようです。有力なのは父の代に四国から三河に来たそうですが・・・それも「諸説」の1つなのだそうです。

牧野古白は法名で、実名は成時(しげとき)です。幕府の大族である一色氏の一門・一色時家に仕えていました。しかし、一色持家は重臣の波多野全慶の下克上により世を去りました。

その弔い合戦で波多野全慶を討ち果たしたのが、牧野成時です。以後、一色氏の旧臣を束ねるような立場になり、旧主の居城・一色城に入りました。そして勢力を拡大し、渥美郡に進出するに至ったようです。

1506年、牧野古白が自害しました。

牧野古白が今橋城を攻められ自害しました。誰が今橋城を攻めたのかには諸説あるそうで・・・今川氏親軍の伊勢新九郎、松平長親、戸田宗光らが候補です。

今川氏親に攻められるとしたら、牧野氏に反今川的行動があったのでしょうか。戸田宗光が今川氏親に讒言したとする説などもあります。牧野古白が自害したのは、今川軍に身の潔白を証明する意図があったのかもしれません。

松平長親は同じ年に、伊勢新九郎に攻められています。この戦いで少数の兵で今川軍を退けたため、松平長親は武名を上げました。なぜ攻められたのか?と推測すると、今川方の今橋城を攻めたから?と推測出来ます。

戸田宗光は・・・ずっと牧野氏と争っていましたからね。伊勢新九郎は、この時には戸田氏を攻めていないようです。松平長親が伊勢新九郎を退けたのも、戸田宗光が今川軍の背後を脅かしたためとされます。

1522年、吉田城に改名されました。

城主の牧野信成が、今橋の地名を吉田に改めました。当時の今橋城は、争奪戦により奪い奪われを繰り返していました。「今橋(いまはし)」が「忌まわし(いまわし)」に通じるのを嫌ったためとされます。

1529年、松平清康の城となりました。

三河統一を進める松平清康が攻め、牧野信成が討死しました。領主としての今橋牧野氏は滅びましたが、正妻が出産のため知多に居て嫡男を出産。後にこの系統が徳川家康の旗本となり、家名は続きました。吉田城には松平清康の直臣が置かれました。

1535年、牧野成敏が城主となりました。

守山崩れにより松平清康が家臣に斬殺されると、西三河の情勢が不安定になりました。城番となっていた松平家の直臣達は自らの領地に帰り、残った牧野成敏が城主となりました。牧野成敏は松平清康が攻めて来た時、早い時期から松平方となっていました。出自は諸説あり過ぎて不明です。

1537年、戸田宣成が城主となりました。

大崎に居住していたとされる戸田金七郎(=宣成)が、牧野成敏を退けて城主となりました。以後、牧野成敏の消息はわからなくなります。

1546年、今川義元により攻め落とされました。

戸田宣成の勢力拡大が今川義元の嫌疑を招き、今川軍に攻められました。戸田宣成は行方をくらまし、以後の消息はわかっていません。尚、同族である二連木城や田原城から、吉田城へは援軍が送られていません。戸田一族が受けた嫌疑を、戸田宣成を犠牲にすることで晴らそうとしたとされます。今川義元は城代に伊藤左近・後に小原鎮実を派遣して、東三河支配の拠点としました。

1565年、松平家康の城となりました。

今川義元が桶狭間の戦で討死した後、松平元康が今川家から独立。1561年から三河各地にある今川家の城を次々に攻めました。この動きに今川氏真が激怒し、松平元康方となった土豪達の人質を吉田城で処刑しています。1565年に松平家康(元康から改名)が吉田城を攻略すると、酒井忠次を城代に任命しました。

1590年、池田輝政が城主となりました。

徳川家康が関東へ移封となり、池田輝政(当時は照政)が城主となりました。池田輝政は吉田城を総石垣の近代城郭として、大改修を加えました。

1601年、竹谷松平家の松平家清が城主となりました。

池田輝政が播磨国姫路へ移り、竹谷松平家の松平家清が城主となりました。竹谷松平家は松平信光の長男を祖とする家系です。本来なら松平家の惣領であるはずなのですが・・・松平信光の三男・親忠の安祥松平家が、いつの間にか宗家となっています。声がデカかったのでしょうか?w

以後、城主がちょいちょい交代します。最後の城主は大河内松平家の松平信古です。1869年、松平信古が版籍を奉還したことにより、廃城となりました。

1954年、鉄櫓が復興されました。

本丸の四隅にあった櫓の内、北西の鉄櫓が再建されました。しかし、デザインが本来とは異なります。鉄櫓内部は資料館となっていて、10時~15時の間は中に入れます。休館日は月・火で、祝日だと開館、振替休日だと休館だそうです。・・・ちょっとワカリヅライですねあせる


所在地:愛知県豊橋市今橋町(豊橋公園)

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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