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田原城/愛知県田原市

田原城は結構色々残っていて、見応えのあるお城です。
訪問日は2014年8月7日です。

田原城①
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まずは城内にあった縄張図です。本丸は南からの細道の先にあり、その細道を2の丸と3の丸で挟んでいます。周りにはしっかり水堀が巡っていました。

田原城②
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そして、これが現在の様子です。本丸は旧状を留めていそうですが、2の丸はガッツリですねあせる周辺の堀や曲輪など、いくつか無くなっているものもあります。それでも、部分的にしっかり残っている個所もある感じです。

田原城③

そのしっかり残っている場所がここです。水堀と石垣が残り、櫓門が復興されています。塀もあり、雰囲気満点です合格

田原城④

その復興された櫓門(桜門)がコレです。石垣とか2階の窓とかその他諸々ツッコミ所満載ですが・・・遠くから眺める分には、いい雰囲気出してます^^;

田原城⑤

そして、愛知縣は要所は外しませんね恋の矢字体が凝ってて、ただ建てました的でない所がニクイですラブラブ

田原城⑥

城内に入って目を引くのがこの櫓です。典型的な昭和白亜の櫓です。どうせならもうちょっと、、、別にイイですあせる

田原城⑦

そのすぐ先にある「空堀」です。まさかこんな規模で残ってるとは思いませんでした。写真だとただの藪にしか見えませんが、かなりの幅と深さがあります。

田原城⑧

そして、本丸です。現在は巴江神社があります。鳥居と石灯篭を外して想像すれば、社殿が本丸御殿に見えてきます。見えてき・ま・す・よ・ね?w


◆歴史◆

1480年頃、戸田宗光により築かれました。

戸田氏は室町幕府政所執事・伊勢貞親の被官でした。もともとは碧海郡上野で代官をしており、松平信光の勢力範囲のかなり近くでした。ともに1465年の額田郡一揆の黒幕とされ、戸田宗光は松平信光の娘を娶っています。その後、戸田宗光は知多半島東岸に移って勢力を拡大し、さらに渥美半島へ渡りました。地理が苦手な方は、三河湾の左の半島の先から、右の半島へ渡ったとイメージして下さい。渥美郡に渡った戸田宗光は、渥美郡分郡守護代である一色政照の養子となっています。力づくでも良かったのでしょうが、下手すると幕府の討伐対象になりますからね。そうして一色政照を隠居させて、渥美郡支配の拠点として築いたのが田原城です。知多へ移ってからたった5年ほどで、三河湾一帯の海上権を制圧してしまいました。

戸田氏に東三河一帯を制圧すべく、二連木城を築きました。地図を眺めていると、そのまま浜名湖西岸まで一気に制圧しそうな感じでしたが・・・そこへ思わぬ敵が立ちはだかりました。それが、吉田川西岸の牧野氏でした。牧野古白が吉田川を渡った渥美郡内に、今橋城を築いたのでした。これは今川氏親が牧野古白に命じたものらしいのですが・・・以後、戸田氏と牧野氏が一進一退の攻防を繰り広げることとなりました。

1547年、今川義元に攻め落とされました。

1540年代に松平広忠と織田信秀の間で数度の戦があり、安祥城が織田信秀の城となりました。本拠を失った松平広忠は、吉良氏のはからいでいったん伊勢に逃れています。
その後、三河に戻った松平広忠は、安祥城の奪還を狙っていました。しかし、松平信定など従わない一族も多く、今川義元に頼らざるを得ない状況でした。そこで、松平広忠は今川義元に人質を出して属国化することを選択したのですが・・・その人質である竹千代が、田原城主・戸田康光により織田信秀に売られてしまいました。戸田氏は当時、今川義元に従っていたはずなのですが・・・織田・松平・戸田連合が出来れば、今川義元に対抗出きると踏んだのでしょう。しかし、松平広忠は織田信秀とは組まず、今川義元により戸田康光は攻め滅ぼされました。今川家からは天野景貫、朝比奈元智、岡部輝忠が田代城の城代として送られました。

1549年、松平広忠が殺され、今川義元が三河併呑の動きを加速させました。

今川義元は、三河の要所に自らの家臣を配置し始めました。そして、太原雪斎を大将として織田信秀に奪われていた松平家の本拠・安祥城を攻めました。今川軍は数度の攻防の末に安祥城を攻め落とし、城主・織田信広を生け捕りにしました。織田信広は織田信秀の庶長子で、織田信長の兄に当たる人物です。そのため人質を交換することとなり、竹千代が駿府へ送られることとなりました。

1560年、桶狭間の戦で今川義元が織田信長に討たれました。

松平元康は混乱に乗じて岡崎城を奪い、そのまま今川家から独立を果たしました。その後、織田信長と同盟を結び、三河統一に動き出しました。

1564年、松平家康により攻め落とされました。

松平家康は1561年に反今川の兵を挙げ、次第に東へ進みました。そしてその3年後には、東三河の要衝である吉田城を攻め落としています。同じ頃に田原城も陥落し、松平家康の家臣・本多広孝が城主となりました。

1590年、伊木忠次が城主となりました。

徳川家康の関東移封に従い、本多広孝が上野国白井城2万石へ移りました。三河には代わって池田照政(後の輝政)が入り、田原城には家老の伊木忠次が入りました。伊木忠次は羽柴秀吉に実力を認められた武将で、陪臣でありながら領地を与えられています。・・・凄い人、ってことで(脱線防止w)

1601年、戸田尊次が城主となりました。

関ヶ原の戦の後、池田輝政が播磨国姫路城へ移りました。田原城は戸田尊次が城主となりました。戸田尊次はあの事件を起こした戸田康光の弟・戸田光忠の孫です。あの時、戸田光忠は田原を脱して岡崎へ逃れていました。その後は松平家臣として功を重ねました。三河一向一揆では一時一揆方となりましたけどw

1664年、三宅氏が城主となり、明治に至ります。

三宅氏は三河国挙母の出で、徳川家康の初陣で攻められ家臣となった一族です。以後は譜代家臣として仕え、三宅康貞は挙母藩、伊勢亀山藩を経て田原藩主となりました。この田原藩三宅氏の江戸屋敷があった場所が、現在の三宅坂です。

1872年、廃城となりました。

廃藩置県により廃城となり、建物が取り壊されました。二の丸櫓は1958年、桜門は1994年に復興された物です。


所在地:愛知県田原市田原町

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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