2016/05/14
高力城/愛知県幸田町
高力城(こうりきじょう)は、橋の近くに城址碑があるだけです。訪問日は2014年8月5日です。

などと書きながら、その肝心な城址碑を撮らず・・・バイク停める場所を探してお寺に辿り着き、そのままお寺だけ見たっぽいです。訪問時に見ていた地図は、ちゃんと橋の脇にマーク付けていましたけど

ということで、負け惜しみです。勘違いして散策したのが、すぐ北にある山泉寺です。うぅ~ん、普通のお寺と思っていましたが、そりゃそうですよね・・・

バイク降りてから地図見てなかったんでしょうね。勝手にココだ!と勘違いしてしまっています。でも、そう思わせた地形がありました。お寺は河岸段丘の上にあったのです。

下から見上げるとこんな感じ。お城を攻める兵の気持ちになって、お寺を見上げていたんですね。。。
◆歴史◆
高力氏のお城でした。
高力氏は源平合戦時代に武名を馳せた、熊谷直実の子孫とされます。熊谷直実は一の谷の合戦で平敦盛を討った後に出家し、蓮生と名乗りました。この世の無常を感じ、法然上人を訪ねて刺し違えるつもりだったそうです。しかし、法然上人に諭されてからは熱心な弟子になりました。京から武蔵へ帰る際は、西に背を向けないよう後ろ向きに馬に乗っていたそうです。
・・・脇道脇道

その子孫が三河に来たのは、室町時代の始め頃でした。当初は遠江との境にある八名郡に移り、宇利熊谷氏と呼ばれました。その後、松平清康の時代に熊谷正直が功を上げ、高力に移ったとされます。熊谷正直は梁田姓を名乗りましたが、その子・重長からは高力姓を名乗りました。時期や場所から、松平清康が西郷氏を降した頃と思われます。その後、織田信秀と戦った守山崩れの際に、高力重長とその子・安長は討死しています。
高力清長は「仏の高力」と呼ばれていました。
高力重長の孫・清長は、1530年に高力城で生まれたそうです。父・高力安長が討たれた際はまだ幼く、叔父の高力重正が後見していました。若い頃は人質生活を送っていた竹千代に随い、駿府に居たそうです。桶狭間の戦の際も松平元康に従い、大高城の攻防戦で功を立てています。三河一向一揆では、戦乱の最中に拾い集めた仏像や経典などを持ち主に返しています。このため、ひとびとは「仏の高力」と呼ぶようになりました。武田勝頼を滅ぼした後は、駿河の田中城の城主となりました。さらに、1590年に徳川家康が関東へ移った際、武蔵国岩槻2万石を与えられています。この頃までには高力城は廃城になっていたと思われます。
所在地:愛知県額田郡幸田町高力
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