fc2ブログ

坂崎古城/愛知県幸田町

坂崎は徳川家康の側近・平岩親吉のお城がありました。
訪問日は2014年8月5日です。

坂崎古城①

Google Mapを眺めていると、右下の辺りに「城」って書かれています。すぐ近所に天野氏の坂崎城がありました。航空写真で見ると、周りを田んぼで囲まれた島のようになっています。その島の西半分が「城」、右半分が「的場」という地名です。右半分の方が土塁のような木々に囲まれているので、そっちの方がお城っぽい感じがします。

坂崎古城②

でも、まぁ、世間一般的にはこっちが城跡ということになっています。住宅街になり遺構らしいものは見当たりませんが、外周部がこんな感じになっています。かなり浅く要害性はゼロですが、堀跡でしょうか・・・?


◆歴史◆

平岩氏のお城でした。

平岩氏は弓削氏一族とされます。弓削氏は河内国で栄えた氏族なので、何かの折に三河に移ったのでしょう。それがいつどういう経緯なのかはわかりませんでした。

三河では平岩の他に長坂や都筑にも領地があり、それぞれ地名を名乗ったそうです。ということは、ご先祖様はかなりの大物だったということですね!それが誰なのかサッパリですが・・・

平岩氏は、初代の平岩氏貞は今川氏に仕えました。平岩重益からは松平氏に仕え、松平信光・親忠・長親の三代に仕えました。松平信光より前の時代で今川家臣ということは、吉良氏と関係があるのかも?今川氏は三河の吉良氏から派生していますからね!色々想像を巡らせるとキリがありませんあせる

平岩親吉は徳川家康の側近でした。

徳川家康と同い年の平岩親吉は、竹千代に従い一緒に駿河で暮らしていました。
ずっと近くで仕えていたため信任も厚く、家康の嫡男・信康の傅役を務めました。しかし、1579年にその松平信康が切腹しました。平岩親吉はしばらく蟄居していましたが、徳川家康が再三要請したこともあり復帰。武田家滅亡後は甲斐一国を任され、関東移封後は厩橋3万3千石を与えられました。関ヶ原の戦の後は尾張徳川家の附家老となり、犬山藩12万3千石に。しかし、跡継ぎがないまま没し、平岩家は断絶となりました。

平岩親吉は、徳川家康から暗殺役を命じられることが度々あったようです。1576年、水野信元が武田勝頼に内通していると讒言された時、岡崎の大樹寺で暗殺しています。また、1611年にあった豊臣家臣の相次ぐ急死は、平岩親吉による毒殺説があります。その説によると、相手を油断させるために、自ら毒見としてその饅頭を食べたそうです。それが原因で亡くなったそうですが、並の覚悟で出来る事ではありませんね。


所在地:愛知県額田郡幸田町坂崎

愛知県の城跡/なぽのホームページを表示

コメント

非公開コメント

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR