2016/05/14
大草城/愛知県幸田町
お城っぽく見える正楽寺は、昔はお城でした。訪問日は2014年8月5日です。

城跡にあるお寺を訪ねると、こんな感じでした。立派な城壁に立派な門。門の前が凹んでるところなど、虎口の痕跡っぽく見えます。もう、脳内は妄想でいっぱいです


南西側の道の方が広くなったせいか、そちら側にも入口が付けられていました。その入口脇に、城主様についての説明板があります。私は見ていないのですが、境内にはこの城主様と次の領主様のお墓が並んであるそうです。
西側に大きな道が出来たのは、さらにその後でしょう。地図で見ると、境内の一部を盛大に侵食されています。おそらく移転の話もあったと思われますが、主要部は大丈夫ということで残ったのでしょうか。その大きな道側には入口はありません。
◆歴史◆
大草氏のお城でした。
もともとは大草氏のお城で、鎌倉時代に遡ります。室町時代に入ると足利尊氏に仕え、1348年の四条畷の戦で討死しています。これは足利尊氏と楠木正行の戦いで、足利方が勝っています。この功により大草氏は所領を還補され、代々足利氏の調理師を務めました。その後、年代は不詳ながら嫡流が絶え、足利義輝の頃から京での活動が見られます。
西郷氏のお城になりました。
年代、経緯とも不明ですが、三河国守護代の西郷氏のお城となりました。西郷氏は九州出身で、足利尊氏の側近・仁木義長に従ったとされます。仁木義長が三河の守護職を得た際、九州から三河へ移ったとする説があります。仁木義長が三河守護だったのが1351~60年の間なので、その頃三河に来たっぽいです。西郷氏も大草氏同様、足利尊氏と近い関係のため、大草氏の後を受けたものと思われます。仁木義長失脚後も西郷氏は三河に留まり、後に一色氏が三河守護の時に守護代となっています。
大草松平氏の城になりました。
西郷氏は勢力を拡大し、やがて松平氏と争うようになりました。西郷稠頼は松平信光の侵攻に備え、竜頭山に砦を築きました。これが後に岡崎城となります。文明年間(1469~87年の間)、西郷稠頼の子・西郷頼嗣は、松平信光に敗れました。松平信光は五男・光重を西郷頼嗣の養子に入れ、家督を継がせました。そのため、松平光重は岡崎松平氏と呼ばれましたが、後に大草に移っています。
大草松平氏は、何度か松平宗家に逆らいました。
松平光重の子・親貞は、跡継ぎがないまま没し、松平昌安が家督を継ぎました。松平昌安は西郷頼嗣の実子で、西郷信貞とも名乗りました。ということで、表面上は大草松平氏ですが、実質は元の西郷氏に戻っています。西郷信貞は山中城を築いて周辺を押領し、松平清康と争いました。しかし、戦いに敗れた西郷信貞は岡崎城を松平清康に引き渡し、大草に隠退しました。
西郷信貞の子・昌久も松平宗家に反抗しています。1563年にあった三河一向一揆では、一揆方として活動しました。そのため、一揆終息後は領地を没収されています。この時、西郷氏に加勢し一揆方の拠点となった正楽寺は廃寺とされました。
その後、西郷信貞の曾孫・松平康安が、松平信康に仕えて復帰。孫の松平正永は水戸徳川家の家老となりましたが、跡継ぎが無く没し、断絶しました。
慶長年間(1596~1615年の間)、正楽寺が再興されました。
大草松平家(西郷氏)の菩提寺である正楽寺が再興されました。多分ですが、1600年の関ヶ原の戦の後と思います。境内には西郷氏をはじめ、近在の有力者・高力清長のお墓もあります。
所在地:愛知県額田郡幸田町大草(正楽寺)
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