2016/05/10
荻城/愛知県幸田町
荻城跡は写真の通りです。訪問日は2014年8月5日。

まぁ、こんな感じです。

上の写真に写っている城址碑です。これがあるから訪ねました。
2014年の夏休みは。愛知の城跡めぐりをしました。事前に「どこ行こう?」でリサーチしたら物凄い数に。で、絞り込むと少な過ぎ。
その少ない所どうしを結ぶ道順を調べると、ボツの近くを通る通る・・・で、通り道だし、近いし、ついでだしで、ほぼ原案近く見て回ったという感じです。そのツケを今払ってる訳ですがw
◆歴史◆
1460年頃、内藤氏により築かれました。
内藤氏は京から来たそうです。この年代の三河と言えば、一色氏残党と守護の細川氏や、東西吉良氏の争いなどですね。京から来たということは、伊勢貞親が送り込んだのでしょうか?内藤氏は松平信忠や清康に仕え、三河に攻めて来た織田信秀と戦っていました。
内藤義清は上野城主となりました。
どこの上野城なのか???です。というのも、名古屋市でも豊田市でもなさそうなので。織田信秀に攻められているので、尾張に近い所っぽいですけどね。内藤義清は、1536年の織田軍との戦での傷がもとで世を去りました。
・・・享年73です

1563年、内藤清長は三河一向一揆方となりました。
内藤清長も父同様、松平清康、広忠に仕えていました。1542年に織田軍に上野城を攻められた際は、織田兵数十人を討ち取り撃退しています。・・・この年の織田軍との戦いとなると小豆坂の戦でしょうか。依然、ググってもそれらしいお城が出て来ず

1600年、内藤家長は伏見城の戦で討たれました。
三河一向一揆の際、父は一揆方となりましたが、子の内藤家長は松平元康方でした。その後も松平元康→徳川家康の主要な戦に参戦し、数々の武功を挙げました。1590年に徳川家康が関東へ移った際にも従い、上総国天羽郡佐貫へ移りました。・・・ここの城跡見てきました!そして、1600年の関ヶ原の前哨戦である伏見城の戦いで、鳥居元忠と共に玉砕しています。
明治時代まで内藤氏の屋敷があったそうです。
内藤家長の子・政長は更に功を重ね、2万石から4万5千石にまで加増されました。
そして、1622年には陸奥国磐城平藩へ移りました。ただ、三河のこの地にも内藤氏の一族が暮らし続けていたそうです。
所在地:愛知県額田郡幸田町荻
愛知県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント