2016/05/08
上ノ郷城/愛知県蒲郡市
上ノ郷城跡はみかん畑の真ん中にあります。訪問日は2014年8月5日です。

上ノ郷城へ行くには、まず赤日子神社を目指します。ここら辺は道幅が狭く、車を停められるのがここだけだからです。バイクですら路駐が厳しいです。

この神社の目の前にある橋に、城跡への案内があります。
普通はあっても矢印だけなのですが・・・

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とても丁寧な地図まで付けられています。しかも、道順だけでなく見所まで!・・・と、ちゃんと見たのが今でした(爆)


案内の矢印に従って進むと、曲がり角にも案内が。ここいらの道は、こんな感じで小さな石が積まれた石垣で囲まれています。

そして、主郭の入口がこんな感じです。
食い違いの虎口になっていますねヽ(´∀`)ノ

その虎口の土塁上には、立派な城址碑があります


しかし、ここで引き返してはイケマセン!まだまだ先がありますから。こっちは「主郭」って書かれていますネ。まぁ、わかっちゃいますが「本丸」と同義ですw

そして、ここが主郭です。
草ぼーぼー

その一角に、大きな大きな看板が!

そしてそして、文字が書いてある物は、必ず裏側も見ましょうね!こんな風に説明が書かれていることが多々ありますので^^

で、この看板は、最初の神社の前からもよく見えます。道に迷いそうになっても、これが見えれば何となく方向がつかめますよね

◆歴史◆
鵜殿氏の城でした。
鵜殿氏は紀伊熊野別当・湛増の子が新宮鵜殿村に住み「鵜殿姓」を名乗ったのが始まりです。その後、一族の一部が三河国宝飯郡蒲郡に移り、辺り一帯を支配するようになりました。それがいつ頃なのかは?ですが、鵜殿長善の1400年代終わり頃と思われます。三河守護の座を巡り、一色氏と細川氏が争った後、斯波氏と今川氏が争った頃でしょうか。鵜殿長善の孫・長持は、駿河の今川氏親の娘を娶っています。
1560年、鵜殿長照が桶狭間の戦の引き金となりました。
鵜殿長照が悪い訳ではありませんが・・・織田信長の勢力圏にあった大高城の守将を務めていました。その大高城が織田軍に包囲されて兵糧攻めに遭い、ピンチに陥っていました。大高城救援を主目的として、今川義元が尾張に出陣したのが桶狭間の戦でした。そして、その先鋒として大高城に兵糧を運び込んだのが、松平元康です。戦の顛末は有名なので、割愛しますネw
1562年、松平家康に攻められ落城しました。
城主・鵜殿長照が今川義元の妹の子ということで、松平軍が攻めてきました。ただし、鵜殿一族は2つに割れ、下ノ郷城や柏原城は松平方に転じています。近隣の松平清善が先陣でしたが、清善も今川義元の妹の子なので、従兄弟に攻められています。城の守りは固くよく持ちこたえていましたが、忍者に放火され落城しました。この戦により、城主の鵜殿長照は討死。子の鵜殿氏長は、駿府で人質になっていた松平家康の正妻と嫡男・長女と交換されました。
上ノ郷城は、城攻めに参加した久松俊勝に与えられました。久松俊勝は松平家康の義理の父親に当たる人物です。松平家康の母は水野信元の妹でしたが、水野信元が織田信長に接近したため離縁。その再婚相手が久松俊勝でした。久松俊勝は名乗りませんでしたが、子らは松平姓を許されています。
1590年、池田輝政の城となった後に廃城となりました。
久松俊勝の子・松平康元が関東へ移り、代わって三河に入った池田輝政の城となりました。その後、廃城となりましたが、時期はわかりません

所在地:愛知県蒲郡市神ノ郷町
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