2016/05/04
西尾城/愛知県西尾市
西尾城では色々と建物が復元されています。訪問日は2007年6月30日です。

現地にあった案内図です。もう10年近く経ったのですが、これと同じ図が西尾市のサイトに載っていました。が、天守を再建しようという動きがあるそうで、既に天守台が完成しているそうです。・・・またいつか見に行かねば!

現地を訪ねてまず目に付くのが、この鍮石門(ちゅうじゃくもん)です。城主の居館である二之丸御殿に続く門なのだそうです。立派ですね^^

そして、これが天守・・・じゃなくて本丸丑寅櫓です。天守は二之丸にあったそうで、これは本丸に建てられた隅櫓です。・・・なんだかややこしいですねwまぁでも、カッコイイからいいですけど(´▽`*)
◆歴史◆
吉良氏の城でした。
築城年代は不明ですが、三河足利氏である吉良氏のお城でした。吉良氏の起源は鎌倉時代で、承久の乱のあった1221年に遡ります。承久の乱で功を挙げた足利義氏が三河守護となり、西条城を築きました。この西条城が西尾城の前身なんだそうです。足利義氏はその後、陸奥守や武蔵守を歴任した後、出家しました。西条城には長庶子の吉良長氏が入りました。今川氏はこの吉良氏から更に分枝した氏族です。
1556年、今川義元に攻められ落城しました。
城主の吉良義昭が織田信長の調略に乗り、反今川の動きを始めたためです。吉良義昭は牛久保城主の牧野貞成を守将に入れて守りを固めましたが、落城。今川義元は親今川派の牧野成定に家督を継がせ、5年の期限付きで西尾城に入りました。
1561年、松平元康に攻められました。
前年に今川義元が桶狭間で討死した後、松平元康が今川家から独立しました。そのはじめが西尾城や東条城、中島城など今川方の城攻めでした。牧野成定は本拠である牛久保城へ撤退し、松平軍への抵抗を続けました。城主には酒井正親が入りました。
1590年、田中吉政が城主となりました。
徳川家康の関東移封後、豊臣秀吉の家臣・田中吉政が岡崎城と兼任で城主となりました。田中吉政は西尾城を改修し、大手門や櫓門を増築しました。以後、何度も城主が代わりながら、西尾城は明治時代まで存続しました。
1871年、廃城となりました。
1996年、本丸丑寅櫓と鍮石門が再建さされました。
2014年3月、天守台が完成
天守再建の動きは1980年からあったそうです。2007年に二の丸跡にあった体育館が解体され、復元に向けた動きが本格化しました。遺構は造成などにより失われていましたが、図面が残っており2012年にGoサイン。天守台のほか、二之丸丑寅櫓台などが整備されました。
所在地:愛知県西尾市錦城町
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