2016/05/04
東条城/愛知県西尾市
東条城跡には櫓や門が復元されています。訪問日は2014年8月5日です。

東条城跡に近づくと、道端にちゃんと案内が出ていましたヽ(´∀`)ノということで、案内に従って進むと・・・・

だだっ広い更地にコンテナが2つ・・・?ってなりました。

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が、流石に誰でもそうなると予想したのか、ちゃんと案内がありました。
城跡へはちょっと回り込む感じで、ココは駐車場でした。
そう思って道端の案内をよく見ると、下の方のPの文字が隠れていました。
※案内板と案内碑の位置や矢印は、私が追加しています。

なぜかと言うと、案内が両方とも道の反対側にあるからです。普通は「こっちだよ」って案内するモノだから、城側にあるのが普通だと思うのですが・・・

ほらw
うっすらとした矢印は、道の反対側を指しています。

矢印の先にあるのがこの道です。何も書かれていないので、ちょっとおそるおそる登りましたが・・・

登った先にコレがあります。さすがにお城と関係無い所にはありませんよね^^そして、馬出代わりの木々を抜けると!

これイイですネ


門の所に「虎口」って書かれています。土の城ばかり見てると、それだけで喜んでいたのですが。こうやって復元されていると、もう何だか凄いです




建物はこれだけですが、これだけで十分。あんまりゴチャゴチャしてると、却って雰囲気壊れちゃいますからね。ほんのちょっと建物があるだけで、色々と想像を掻き立てられますね

◆歴史◆
東条吉良氏のお城でした。
承久の乱(1221年)で功を挙げた足利義氏が築き、三男の義継が入ったと考えられています。義継に始まる吉良氏は、東条吉良氏と呼ばれました。一方、西条城に入った足利義氏の長庶子・長氏の系統は西条吉良氏と呼ばれます。足利義氏の跡は正室の子・泰氏が継ぎましたが、子孫が絶えたら吉良氏が継ぐとされました。ちなみに、駿河の今川氏は西条吉良氏から派生しました。足利尊氏が鎌倉幕府を倒した際に抜群の功があり、駿河守護となっています。
1470年代に東条松平家が派生しました。
応仁の乱で東条城の吉良義藤が西軍に味方し、三河へ下向。東軍に味方した西条吉良氏の領地へ攻め込んだそうです。ただし、この辺りの詳細は不明で、両吉良家が和睦した後、吉良義藤は病没しました。跡継ぎの吉良持清を補佐するため、松平長親の子・松平義春が吉良家を後見しました。松平義春は青野城を居城とし、系図によっては東条吉良家を継いだことになっています。この系統が、後に東条松平家と呼ばれます。松平義春は松平宗家寄りの立場をとり、兄で桜井城の松平信定とは仲が悪かったそうです。
1549年、城主・吉良義安が駿府へ送られました。
今川義元が織田家に奪われていた安祥城を攻めた際、吉良義安は織田軍に協力しました。そのため、吉良義安は捕らえられ、駿府へ人質として送られました。この時に弟で西条城(=西尾城)の吉良義昭が、東条吉良家の名跡も合わせて継ぎました。駿府へ送られた吉良義安は、この時期に同じく人質だった竹千代と親しくなりました。1555年に竹千代が元服した際は、その理髪役を務めたそうです。・・・何があるかわからないものですね!
1560年、桶狭間の戦で今川義元が討死
1561年、松平元康が西条城の吉良義昭を攻めました。
今川義元の没後、松平元康は今川家から独立しました。その手始めに攻めたのが、今川方の西条城と東条城、中島城でした。東条城に居た吉良義昭は降伏し、岡崎で蟄居生活を送るようになりました。
1563年、東条松平家の城となりました。
吉良義昭が三河一向一揆に便乗して挙兵しました。一揆は鎮圧に半年かかる大規模なものでした。しかし、一揆鎮圧後に松平軍に攻められ、吉良義昭は降伏。許しを請うたものの許されず、東条城を追放されました。吉良義昭は近江の六角氏を頼り、後に摂津の芥川で没したそうです。吉良家の家督は、駿府での人質時代に竹千代と親しかった吉良義安が継承しました。しかし、東条城主は東条松平家の亀千代(当時7歳)が就き、重臣の松井忠次が後見しました。
1582年、廃城となりました。
1581年に松平家忠(=亀千代)が跡継ぎ無く没し、徳川家康の四男・松平忠吉が継ぎました。しかし、松平忠吉は東条城には入らず、翌年駿河の沼津城主となりました。この時に、東条城は廃城となりました。
時代は下り、江戸時代になると吉良義安の系統は高家旗本となりました。そして、あの有名な事件を起こすこととなります。
所在地:愛知県西尾市吉良町駮馬
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