2016/05/03
別所城/愛知県東栄町
別所城跡には中学校があります。訪問日は2014年8月6日です。

城跡の中学校を目指していると、こんな風景に出会います。このこんもりした所が城跡です。左上がりの道は、上の中学校につながっています。

この道を登っていると、カーブの所で脇に入る細道があります。訪問前に参考にしたサイト様達は、いずれもこの道の上に城址碑があると書かれていました。・・・なんとなくバイクで行けちゃいそう!

と思って登った結末です。
バイクで階段は無理・・・

というか、その手前の曲がり角で身動きが取れず




坂道の上にある中学校です。この時は城址碑が何処にあるのかわからず・・・今は色んなサイト様でその場所が紹介されています

◆歴史◆
天文年間(1532~55年の間)、伊藤貞久により築かれました。
伊藤貞久は伊豆から来たそうです。伊豆で「イトウ」と言えば伊東氏。その伊東氏と言えば、日向国出身です。伊藤貞久は日向から伊豆へ養子に入り、更に三河へ下ったらしいのですが・・・真偽の程は置いて想像すると、後北条氏から今川氏に主を替えたのでしょうか。三河へ移って来た伊藤貞久は、長篠菅沼氏に仕えてこの地に城を築いたのだそうです。奥三河には今川(松平)家に属さない領主がボツボツ居ました。防衛拠点というよりは、奥三河侵攻の最前線だったのかもしれません。伊藤貞久は1559年に没し、嫡男の伊藤貞次が跡を継ぎました。
1560年、今川義元が桶狭間で討死した後、松平元康が今川家から独立しました。この頃の三河では、松平元康に従った者と、今まで通り今川家に従った者に分かれました。伊藤氏が従った長篠菅沼氏の菅沼定盈は、早くから松平元康に従いました。そのため、今川軍に攻められて一時雌伏を強いられましたが・・・1562年に野田城を夜襲で奪還し、以後は松平軍の遠江侵攻で活躍したそうです。
1568年、伊藤貞次が遠江の鶴ヶ城を攻めました。別所城は遠江との国境に近く、遠江側では今川氏真に従った奥山氏が居ました。伊藤貞次は、その奥山氏配下の鶴ヶ山大磯之丞を攻めました。鶴ヶ山大磯之丞は城兵を救うために切腹し、家老と嫡男が人質になったそうです。・・・と、ここまでは徳川家臣として働いています。
1571年、伊藤貞次が武田信玄に寝返りました。
徳川領への侵攻を本格化させた武田信玄は、奥三河にも侵攻しました。この時に寝返ったのは別所城の伊藤貞次や田峯・武節城の菅沼定忠などです。伊藤貞次が仕えていた長篠菅沼家は、武田信玄に寝返らずに徹底抗戦しています。すぐ西の設楽城を整備したのも伊藤貞次とされています。菅沼定忠の田峯菅沼氏が一枚岩でないため、不測の事態に備えようとしたのでしょうか。
1575年、廃城となりました。
伊藤貞次が長篠の戦で武田方として戦い、大敗を喫しました。城主が甲斐へ逃れて不在となったため、別所城は廃城となりました。
所在地:愛知県北設楽郡東栄町本郷
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