2016/05/03
武節城/愛知県豊田市
武節城は信濃・美濃との国境近くにありました。直線距離ではどちらへも5kmしかありません。
訪問日は2014年8月6日です。

国道151号を東から走り、トンネルを抜けて最初の道を右折します。周りには沢山「武節城」の文字が躍りますが、国道には案内がありません。その曲がった道を進むと、ようやくこの案内が現れます。あとはここから山に登るだけです。

車道を登り切った所が城跡です。こんな感じで郭の1つが駐車場として使われています。手前にはちゃんと土塁がありますね!

そのすぐ脇に、こんな立派な城址碑があります。こんな簡単に登れちゃうと、山城の醍醐味が半減するような気が・・・という感傷はありませんよw敵を防ぐための遺構が破壊され、郭だけが辛うじて残ったという感じでしょうか。

一段高くなった所には、城山神社があります。往時はもうちょっと厳重な造りだったと思われますが・・・現状は登城路から真っ直ぐ登る道が付けられ、あっさり登れてしまいます。
◆歴史◆
永正年間(1504~21年の間)、菅沼定信により築かれました。
菅沼氏は、美濃守護を務めた土岐氏の一族とされます。足利義教(将軍だったのは1428~41年)の命令で菅沼俊治を討った土岐定直を祖とします。この功によって三河国額田郡菅沼郷を与えられ、東三河の豪族として根を張りました。菅沼氏は更に勢力を拡大し、1470年には田峯城を築きました。城主には菅沼定信が就き、田峯菅沼氏の祖となります。田峯から武節は・・・いつ頃なのかわかりませんでした

1556年、下条信氏に攻められました。
下条信氏は武田信玄の娘婿です。下条氏は吉岡城を本拠とした信濃伊那地方の領主でした。しかし、1554年に仕えていた鈴岡小笠原氏が武田信玄に滅ぼされた時に降伏しました。武田信玄にかなり気に入られ、「信」の字と妹、さらには知久氏の旧領を与えられました。武節の地は下条氏の支配地と隣接しています。
1571年、菅沼定忠が武田信玄に寝返りました。
武田信玄が徳川領への侵攻を本格化させ、奥三河に2万5千の大軍で攻めて来ました。この時、田峯城の菅沼定忠が武田軍に寝返り、支城だった武節城も従いました。武田軍への寝返りを拒んだ菅沼定利(菅沼定忠のいとこ)は野田城へ移りました。菅沼定利は後に、武田家が滅びた後の信濃伊那郡全般を仕切っています。
1575年、武田勝頼が立ち寄りました。
長篠の戦で大敗した武田勝頼が立ち寄りました。本当は田峯城に入るはずでしたが、留守を守っていた菅沼定忠の叔父・定直が拒否。やむなく、支城の武節城に入りました。武田勝頼が甲斐へ戻った後も、菅沼定忠は武節城に立て篭もりました。しかし、攻め寄せた酒井忠次率いる徳川軍に敗れ、信濃伊那郡へ逃れました。以後、武節城は長篠城主・奥平信昌の城となりました。
この時の菅沼定忠の恨みは凄まじかったようです。武節城を追われた翌年、菅沼定忠は夜陰に紛れてかつての居城である田峯城を襲いました。そして、かつて自分を城から追放した叔父の菅沼定直や今泉道善らの一族を皆殺しにしました。特に菅沼定直は父の仇でもあり、鋸挽きという残酷な方法で殺したと伝わります。・・・ググってみると、かなりえげつない画像が出て来ますw菅原定忠はその後、武田家滅亡の時に許しを請いましたが許されず、徳川軍に処刑されました。
1590年、廃城となりました。
奥平信昌が徳川家康の関東移封に従って関東へ移ったため、廃城となりました。
所在地:愛知県豊田市武節町
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