2016/05/01
鴛鴨城/愛知県豊田市
鴛鴨城は高速道路のジャンクション近くにあります。訪問日は2014年8月5日です。

▲案内
高速道路沿いにトラックの会社があり、その入口脇にこの案内があります。下の地図ではマーカー脇に付けたラインの上側がここです。

▲木が密生する城址
案内の所から見た城跡です。・・・放置されてますね


▲説明板
その手前まで行くと、立派な説明板があります。

▲城址碑
背後には石段で囲まれた怪しげな空間があり・・・その中に、この城址碑があります。愛知縣、グッジョブヽ(´ー`)ノ

▲南西側から
ということで、遺構らしきものは見当たりません。城址碑の辺りが周りより少し高いので、櫓台があったのかもしれませんが。ちょっと離れて見ると周りを水田で囲まれており、微高地だということがわかります。沼沢地に囲まれた要害だったのかもしれませんね。
◆歴史◆
1468年、松平信光が攻略しました。
築城年代は不明ですが、押鴨入道酒井道円が居城としていました。※当時は「押鴨」と表記したそうです。岩津城を本拠とする松平信光が次第に勢力を拡大し、この年に押鴨城を奪いました。城主には自らの子・松平親光を入れました。松平信光は子沢山で、こうやって制圧した土地に自分の子を配置したのでした。松平親光は鴛鴨松平家(後に西福釜松平家)の祖となりました。
1561年、4代めの松平忠久が西尾城へ移りました。
この頃の松平家中は、今川氏真派と松平元康派に分かれて争っていました。鴛鴨松平氏は松平元康派だったそうです。松平元康はこの年、吉良義昭を攻め降伏させました。これにより、西三河の大部分を支配下に収めました。吉良氏の城だった西尾城には酒井正親が入り、その側近として松平忠久が付けられました。
1563年、三河一向一揆で松平家康方の最前線となりました。
三河一向一揆は、松平家中を巻き込んだ大規模な騒乱です。浄土真宗に帰依していた松平家臣の中には、一揆方についた者が多くいました。また、松平家康にとって代わろうとした酒井忠尚や吉良義昭も一揆勢に味方しました。酒井忠尚の本拠である上野上村城は、鴛鴨城のすぐ南にありました。一揆が鎮圧されると松平家康の討伐を受け、酒井忠尚は逃亡しました。
1565年、廃城となりました。
鴛鴨に残っていた3代めの松平親久が没したため、廃城となりました。
所在地:愛知県豊田市鴛鴨町
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