2013/04/17
勝沼城/東京都青梅市
奥多摩の城シリーズ第3弾!奥・・・ではありませんが、勝沼城跡です。

▲妙光院
勝沼城は妙光院と光明寺の裏山(台地?)にありました。事前に見たサイトでは何やら怖い事が書いてありましたが・・・

▲板が競い合う
妙光院の左脇から坂道を登るとすぐに大きな板と小さな板があります。大きい方は東京都が立てたもので「勝沼城跡歴史環境保全地域案内図」とあります。文字通り「案内図」ですが、ぼんやりざっくりと範囲と道が描かれているだけです。
その脇にある小さな板は妙光院が立てたもので「関係者以外の立入禁止」・・・入っちゃいけないの?柵やロープなどの規制線もないので、とりあえず進むことに。

▲案内図に遺構などを書き込んでみました(拡大)
案内図がザックリし過ぎだったので、「こんなんだったらいいのに」的に手を加えました。規制線や地形の関係で入れない所もありますが・・・東から3郭→主郭→2郭の順に見て来ました。
まずは3郭!上の写真でも分かる通り、2重の空堀と土塁が出迎えてくれます。かなりはっきりした遺構なので、いきなりテンション上がります


▲3郭南側の土塁 一部崩され通路となっている
坂をほんの少し登ると「虎口?」的な所があります。ですが、裏から見ると土塁を崩して通路にしたのが分かります。そして、その土塁の上には説明板が。やはり、規制線の無い所は入ってよさげですね。

▲現地説明板
どこの説明板もそうなのですが、内容はかなり大雑把です。まぁ、板の大きさと書ける文字数の制約があるのでしかたないですが。それでも、有ると何も無いのとは天と地の差。こういう物があるだけでもとても有難いと思います。
説明板から東に目をやると、北側が段差になっているのがわかります。藪で覆われていて最初は気付きませんでしたが、3郭沿いに空堀がありました。高低差は5mほど。気が付いてから見ると、それはそれは立派なもんです!

▲3郭は妙光院の墓地
ですが・・・3郭の内側は一面の墓地。お寺は史跡の何だの言われる前からそこにある訳で・・・どこにお墓造る?と考えれば、すぐ脇に造るしかありませんよね。
これが板を見ただけでピリピリした感じが伝わる元だったのかもしれません。既に3郭はお墓がビッシリ。歴史的史跡として開発が制限されれば・・・新しくお墓を造る場所が無くなりますからね。貴重な史跡の保存と生活のための開発。難しい現実を垣間見た思いがしました。

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▲3郭南西部の空堀・土塁
先ほどの空堀の延長線上には、立派な空堀と土塁がありました。この堀底道を進むと主郭の南に出ます。

▲主郭南側からの眺め
主郭の南側には少しだけ木々が伐採された所があり、街を見下ろせる場所がありました。家の高さから推測すると、比高は20mほどでしょうか。こうやって見渡すと、何だかお殿様気分になっちゃいます♪
更に進むとパッと開けた場所があり、斜面にお墓が並んでいました。この下に光明寺があります。お墓のある所から北に進むと鉄塔があり、その先に開けた郭があります。ここが主郭です。鉄塔の所が虎口っぽく見えましたが・・・後世の改変なのかもしれません。主郭に入ってすぐ左脇には、3郭にもあった黒い説明板がありました。文面はまったく同じです。

▲主郭東側の土塁
主郭は南を頂点とする三角形で、その東西には土塁がありました。高さは1m強といったところ。

▲主郭と2郭を隔てる堀切
土塁沿いに西へ進むと、堀切がありました。深さは2mほど。東の3郭との間にも堀切がありました。そちらは深さは1mほどですが、幅が5mほどありました。2郭内部は、主郭とは雰囲気が違って杉林となっています。もう少し来る時期が早かったらヤバかったかも。

▲2郭西側の土塁
2郭を西へ進むと、高さ1mほどの土塁がありました。そこから下を見ると深さ3mほどの堀切が!下りてみると、2郭の南側を囲むように空堀がめぐり、更にその外側に土塁がありました。この造りは主郭・3郭とも同じです。そんな感じで南側は造りが厳重ですが、北側には特にこれといった境界がありません。素人目にも、南側からの攻撃に備えた造りになっているようです。

▲2郭南側の空堀と土塁
2郭南側をめぐる空堀と土塁は、まさに防御の要!といった感じ。周りはすっかり市街地と化していますが、よくもこれだけの遺構が残ったものです。お寺さんがあったからこそ開発を免れたのかもしれません。正直それほど期待していませんでしたが、いざ来てみると圧倒されましたヽ(´ー`)ノ
◆歴史◆
勝沼城は鎌倉時代から室町時代にかけて、三田氏が本拠としていました。文献での初見は1250年とか1300年とか色々言われていますが・・・築城年は不明です。
勝沼城のある青梅市一帯は、昔は「杣保(すまのほ)」と呼ばれていました。「杣」とは国家が保有した山林という意味だそうで、「杣保」だと「国有林」ということでしょうか。奥多摩一帯は遅くとも飛鳥時代(西暦700年頃)から木材の産地だったそうです。
平安時代から鎌倉時代にかけては武蔵国府が管理していたそうで、畠山重忠がその長でした。・・・だからその頃に御岳神社に鎧を寄進したりしたんですね!その畠山重忠があらぬ罪で滅ぼされたのが1205年のことです。重忠の所領と畠山氏の名跡は、足利義純に引き継がれました。
その後、「杣保」の支配者として史料に現れるのが三田氏です。1250年にはお寺を勧進したというので、重忠滅亡後から治めていたのかもしれません。
三田氏は平将門の子孫であると称しています。真偽の程は定かではありませんが・・・畠山重忠の次に杣保を支配した足利義純の父・義兼は、下野国足利庄を本拠としていました。
平将門は下総国佐倉を本拠としていました。両者は近所・・・でもありませんが、近いといえば近いですよね?「不詳」となると、つい勝手に色々想像しちゃいますw
時代は下り、室町時代には三田氏は関東管領・山内上杉氏に仕えていました。それなりに活躍し、重く用いられていたようです。
1546年に後北条氏が扇谷上杉氏を滅ぼすと、武蔵の豪族達は後北条氏に鞍替えしました。三田氏もこの時に後北条氏に仕え、所領を安堵されています。
1560年、三田氏の旧主・山内上杉憲政の要請により、長尾景虎が関東に出陣しました。景虎は各地で後北条氏の勢力を圧倒して南下しました。すると、それまで後北条氏に従っていた豪族達は、競うように景虎の軍門に降りました。三田氏もこの流れに従い、景虎側につきます。この時に景虎は、鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領職を譲り受け、上杉政虎と改名しました。
しかし、上杉軍が越後へ帰ると、関東の豪族達は再び後北条氏に帰属しました。今後、関東の小勢力はこの動きを繰り返すこととなります。ですが、三田氏は後北条氏には戻らず、上杉方として後北条氏に抵抗を続けました。この理由は今でも謎のままとなっています。
そのため、1561年から滝山城主・北条氏照による攻撃を受けました。三田氏は本拠であった平山城の勝沼城を捨て、山城である辛垣城に籠りました。
辛垣城は天険の要害で簡単には落城しませんでしたが、孤立無援のため2年後には落城。三田氏当主の綱秀は、反北条勢力である岩槻城の太田氏を頼って落ち延びました。
三田氏滅亡後は、師岡山城守将景が城主となりました。師岡氏は相馬氏(平将門の叔父の系統)の子孫と言われています。三田氏とは近縁なため、元々は三田氏の重臣だったのかもしれません。
将景の名は、武田信玄が滝山城を攻めた際に守将の中にも見られます。1590年に後北条氏が滅ぼされると、勝沼城も廃城となりました。
所在地:東京都青梅市東青梅6丁目
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