2016/04/14
田代城/愛知県豊田市
田代城跡へは立派な道が整備されています。訪問日は2014年8月6日です。

▲説明板
田代城跡へ近づくと、道端に立派な説明板と案内があります。ここまで辿り着ければ迷う事はない、と思いますw

▲案内図 拡大表示
その説明板に載っている城跡の図です。図では台地先端部を堀切で切り取った感じに見えます。ただ、実際はその背後の山頂までが城域だったそうです。確かに図の所だけだとすぐに辿り着けてしまうので、防御力が心もとないです。

▲入口
さて、そうとは知らなかった当時、案内に従って辿り着いたのがココです。ただ矢印を立てるだけではなく、誰が見てもわかるよう白いセメントで舗装されています。とってもわかりやすくていいですね


▲本曲輪
その手作り感溢れる舗装道を辿ると、そこはもう主郭です。・・・図では本曲輪ですね!ついクセでw本曲輪とか主郭と言いつつ、あっさり辿り着けた事に多少疑問は感じましたけど。

▲土塁・堀切方向
で、図に派手に描かれた土塁や堀切の方向を見ると、こんな感じです。藪・・・の・・・中・・・で・・・す・・・ね・・・?一番の見所が藪の中なんて!などと思いつつも、ここまで来てどうする?

▲土塁
なんて愚問です。真夏だろうが、草を掻き分けて進むのが城キチです。悲しいサガです。梅干を見てツバが出るあれと同じく、もはや条件反射ですwまぁでも、大して草を掻き分けるでもなく、すぐに土塁に辿り着けます。竹薮は下草が全く無いので、手入れされていればとても歩きやすいです。

▲堀切
さらに、図に描かれている通り、土塁の向こう側には立派な堀切がヽ(´∀`)ノ勇気を振り絞って藪に突っ込んだ甲斐がありました。大した藪ではありませんでしたけどw・・・ここでお腹いっぱいになってしまい、実はこの隣にもう1本ある堀切を見逃しました

◆歴史◆
築城年代、築城者ともに不明です
『三河国二葉松』『参河志』では森外記、松平主税、松平甚五左衛門が城主と書かれています。どちらも全く同じ文面なので、出典は同じのようです。
『東照軍鑑』では松平道久が登場します。この本は徳川家康の幼少からの側近が見聞きした事や、大樹寺の寺伝を記したものです。徳川家康版の『信長公記』といった感じの書物です。1巻の「織田信秀病死」の次に、竹千代が家臣に田代城を攻めさせたことが書かれています。
4月20日に尾張沓掛城を攻め、植村出羽守と家堀六郎次郎が討死
7月1日に2500騎で田代城を攻め、松平道久は戦わずに降伏して人質を出した
大雑把にはこんな事が書かれています。この年がいつかと調べると、1552年の事でした。登場人物でググッたら、植村出羽守が討死したのが1552年だったというのでわかりました。
この「松平主税」と「松平道久」は同一人物でしょうか?いくらググっても、どのような人物なのか釈然としませんでした。松平氏は領地の地名をとって○○松平氏なんて呼ばれますが、それもわかりませんでした。
ただ、すぐ近くの大沼城を調べると、ちょっとヒントがあるような気がしました。大沼城は木村氏の城でしたが、跡継ぎが絶えた時に大給松平乗元の次男が名跡を継ぎました。この事から、田代城も大給松平氏の支配地域であったと推測されます。
1574年、武田勝頼に攻め落とされました。
『三河国ニ葉松』で「天正二年勝頼被攻落城」と記されています。
ちょっと北の足助城は、1571年に武田信玄に攻められ、1573年に徳川家康が奪還しています。ちょっと東の大桑城は、1572年に武田信玄に攻められ、武田軍が改修を加えています。すぐ近くの大沼城は、1574年に武田勝頼に攻められ、1575年に徳川家康が奪還しました。ちょっと西の大給城は、武田軍に攻められたような事が書かれておらず・・・足助辺りが武田軍と徳川軍の勢力境だったようですね。
1575年に近所の大沼城を徳川家康が奪還しているので、田代城辺りも同じだったと思われます。ただ、それ以降の田代城については何もわからず。武田軍に攻め落とされた時に廃城になったのかもしれません。
所在地:愛知県豊田市小原田代町
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