2016/04/10
松平館・松平城/愛知県豊田市
松平郷は松平氏発祥の地とされています。訪問日は2014年8月6日です。

▲案内図 拡大表示
松平東照宮前にある案内図です。ココ風に言い直すと、松平館前にある案内図ですwと書きつつ現場では撮っただけで見ず・・・今頃になって「あ、松平親氏の銅像あるやん!」ってなってます


▲松平東照宮
そんな調子なので、見たのはココだけ。まぁ、他に遺構がある訳ではないのですけど・・・w立派な石垣と水堀は、江戸時代はじめ頃に築かれたものだそうです。

▲松平城の案内
神社の手前になりますが、キレイな公衆トイレのある交差点の所に案内があります。ここから脇の細道を山の方へ入ります。

▲登城口
ちょっと走ると道の右手に矢印が見えます。その先には何やら文字が書かれた板が!ということで、ここから松平城跡へ登ります。手前の道端には何とかクルマを停めるスペースがあります。

▲登城口
城跡への入口です。矢印と説明板と図まで


▲図 拡大表示
その入口にある図です。これ見る限りでは、主郭まで真っ直ぐ上がれそうな感じ。道をくねらせ、上から撃退するという構造には見えません。

▲登城路
実際登ってみると、登城路はこんな感じで緩やかです。往時は階段はなかった、と思いますが・・・

▲曲輪2
登城口から3分で曲輪2です。早過ぎwwwしかも堀切や土塁等は無く、踊り場的な感じです。古い構造の山城ですね!

▲曲輪1
曲輪2からさらに登る事2分で主郭、じゃなくて、曲輪1です。一応、図に合わせて書いてます。どっちでもいいですけどw

▲城址碑
主郭の真ん中に大きな岩があり、その上にちょこんと城址碑があります。おなじみの「愛知縣」です!でも、いつもよりほっそりした感じ。愛知縣の建てたヤツの中でも初期なのかもしれませんね!

▲城址碑の裏から見た主郭
入口から見た主郭は城址碑の所までに見えましたが・・・奥へ進んでみると、更に同じぐらいのスペースがありました。実はちょっと広い主郭でした^^
◆歴史◆
※諸説あるので、「こんな説もあるのか」程度に思って下さい。ということで、松平郷の公式サイト様に沿った内容とさせて頂きます。
弘安年間(1278~87年の間)、松平信盛が館を築きました。
松平信盛は都からやって来た貴族で、在原氏の一族です。元々は賀茂郡足助荘外下山郷でしたが、松が多いことから「松平郷」に改めたそうです。心機一転、これからここで頑張るゾ!という割に、ネーミングは安易かもしれませんw
子の松平信重の代には賀茂郡の9村、額田郡の6村を治めていたそうです。弓馬や和歌に秀でた有徳人だそうで、三河では広く知られた人物だったそうです。
応永年間(1394~1428年の間)、松平親氏が松平城を築きました。
松平親氏は松平家初代とされる人物です。新田氏の一族である世良田氏を称し、戦に敗れた後、追っ手を逃れるため出家したそうです。流浪の時宗僧だったそうですが、松平信重と意気投合してその婿養子となりました。・・・ここら辺は江戸時代に書かれた書物にしか出て来ないお話だそうです。その後、徳川家康に連なる松平一族は、松平親氏を祖とします。
松平信広の城となりました。
松平氏2代めとされる松平泰親は、松平親氏の叔父または弟とされますが詳細不明です。松平親氏の庶長子である信広や信光を後見した人物のようです。しかし、松平信光以前は史料に乏しく、実在したかどうかさえ怪しいのだそうです。
松平信光は1421年に岩津城を攻略し、本拠を移しました。この時の戦で松平信広は負傷し、戦の表舞台に出てこなくなりました。以後、松平郷は松平信広の家系が代々治め、明治時代まで続きました。血筋の上では松平家の宗家に当たります。戦での華々しい武勇譚は無く、所領は250石(後440石に加増)と微々たるものでした。しかし、江戸時代には交代寄合として大名と同じく参勤交代を行う家柄として扱われました。
早い時期に周辺勢力が掃討されていたので、お城も古い形式のままだった訳ですね!
1619年、松平東照宮が創建されました。
松平尚栄が徳川家康を祀るため、現在地に松平東照宮を創建しました。ここが松平氏の館跡とされているので、敷地の一部だったものと思われます。
所在地:愛知県豊田市松平町
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