2016/04/05
梟ヶ城/愛知県豊田市
梟ヶ城(ふくろうがじょう)は展望台になっています。訪問日は2014年8月6日です。

▲登城路
梟ヶ城跡へは地図で見える通りの道で行けます。かなり上の方まで舗装されているので、楽々登れます♪楽々ついでで、登城路も歩きやすく整備されています。

▲もうすぐ頂上
往時もこんなんだったのか?と思う位に楽々登れます。お城への道となれば、色々仕掛けがあって簡単には辿り着けないものですが・・・道を整備するために重機で削り取った様子もなし。篭城して戦う城ではなく、狼煙台や見張り台といった感じがします。
要害性の薄い登城路ではありますが、頂上手前はこんな感じになっています。巨岩の間を通るコースが、天然の枡形虎口のようですヽ(´∀`)ノ1箇所くらいはこんな所があってもいいですよね^^

▲頂上!
そして、あっと言う間に展望台が見えてきました。最後まで坂が緩い登城路でした。周りに土塁などもなく、場所がバレレばあっさり攻められそうです。

▲展望台
城跡にある建築物です。白亜だったり鉄鉄筋筋じゃないのは好感が持てます。もうちょっと中世の櫓っぽかったらなぁなんて、贅沢でしょうかw
◆歴史(全部推測)◆
一切不明です
名の由来だけはあちこちに書かれていますが・・・梟の鳴声で敵の夜襲を察知し、撃退したことに由来するそうです。
ここで見張っていたのがどこの兵で、夜襲を掛けたのがどこの兵なのかは???です


また、登城路が南から付いていたので、見張り台に使うなら南側の勢力でしょう。Google Mapを見ていると北側にも登山道が付いていますが、ちょっと大変そうです。
すぐ北には、鈴木氏の酒呑城や矢並城などが間近にあります。その脇を通る足助街道を北東へ進むと、足助城もあります。すぐ南には大給城、その東には松平郷があります。誰でも思いつく想像をすれば、松平氏が鈴木氏を見張るためのお城だったと思われます。
ただし、大給松平氏は同族との争いも数多くありました。1552年に東条松平氏と争い、大給城が攻められています。この時は落城していないので、この時の事が名の由来なのかもしれません。
大給城はその後、夜襲を受けて落城したことがあります。それは1575年の事で、滝脇松平氏に攻められました。大給松平氏は1556年にすぐ東の滝脇城を攻め、城主とその嫡男を討ち取っています。それから約20年後、その城主の次男が仇討ちで夜襲を仕掛け、城主を追い出しました。ただ、この時攻めた滝脇松平氏は、大給城の南東を支配していました。方向が逆な上に攻め落とされているので、この時ではありませんね・・・
大給城の事を書いた時、はっきりしてなくて書かなかった事があります。それは、大給松平氏は織田氏寄りで、三河を接収しようとした今川軍と戦っていた事です。
今川軍が大給城を攻めに来るとすれば、おそらく南西の岩津から来ると思われます。1555年頃、大給城の松平親乗は、三宅氏や鈴木氏などとの反今川連合をまとめていました。今川軍を撃退したのがいつの事なのかは?なのですが・・・1556年には降伏したようで、嫡男を吉田城(豊橋)に預けて駿府へ出仕しています。もしかしたら名の由来は今川軍を撃退した時の事で、自慢するのが憚られたのかも。
所在地:愛知県豊田市鍋田町下タカウ田
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