2016/03/31
古瀬間城/愛知県豊田市
古瀬間城は松平氏による高橋荘攻略の前線基地でした。訪問日は2014年8月6日です。

▲図 拡大表示
まずは主郭にある説明板に載っている図です。あまり規模は大きくないのですが、登城路がらせん状になっていることがわかります。攻撃の最前線でありながら、ちゃんと守備にも気を遣っているんですね。

▲城址碑
城址碑は麓の浄願寺の入口にあります。場所がわかりやすくてとても助かります!・・・ここだっけ?なんてことがよくあるので


▲説明板
すぐ近くの電柱の陰に、説明板も設置されています。ふむふむ、暗い夜に一人で歩くとあぶないんですね。。。気をつけましょうw

▲登城口
さて、登城口は浄願寺の境内にあります。お寺の中をずんずん進んで行く感じです。この辺はお寺さんって懐が深いですよね!

▲登城路
登城路の様子です。斜面の端を細い道が巡っている感じです。登って来た敵兵を上から狙い撃ちするような構造なんだと思います。

▲歌碑
途中、やたらと石碑が乱立している箇所があります。こんなに並んでると、何だかお墓みたいで怖いですよね?

▲主郭
さて、図の通りに進んだかどうかの記憶が???ですが、主郭です。郭らしい平場があまり無かったように記憶しています。・・・昨日何食べた?かも怪しい記憶力ですが


▲展望台
その主郭の一角に、こんな感じの展望台があります。城跡にあることを意識した感じでしょうか?ミョーに派手なのをいくつも見てきたので、木造って所でかなり好感持ちました。1階の壁に貼られている茶色いのは、お城について書かれた説明板です。
◆歴史◆
1506年、松平宗忠により築かれたとされます。
松平氏が寺部城の鈴木氏を攻めるために築きました。松平宗忠はずっと東の長沢城を本拠としており、ここが領地と言う訳ではありません。
地図を見ていると、松平氏が松平郷から領地を拡げるならまずこっちでは?と思う所です。しかし、松平信光は1421年に岩津、1458年に岩略寺(長沢)、1471年に安祥を攻略しています。松平郷から寺部や挙母を避けるように南へ向かっています。松平信光は多くの子を各地に配置しましたが、安祥からさらに海に向かった感じです。
寺部や挙母は高橋荘と呼ばれ、中条氏が鎌倉時代から支配していました。その中条氏と松平氏が衝突したのが、松平信光が没した後の1493年でした。たぶんそれまでは友好関係にあったのでしょうが、何があったのかはわからず。境界争いがあったのか、それとも今川氏親が侵攻し始めた事が関係あるのでしょうか?争いは続きましたが、松平軍が寺部城を攻め落とすのは、ずっと後の1558年の事です。
あちこちのぞくと、足助の鈴木重政が城主だったこともあると書かれています。足助鈴木氏は、松平宗家と血縁があります。松平信光の三男で安祥城主となった松平親忠が、鈴木重勝の娘を正室に迎えています。鈴木重勝は足助鈴木氏の一族で、市場城主だった人物です。ただし、寺部城の鈴木氏も同じ足助の鈴木氏と同じ一族です。松平氏と中条氏の両方に深く関わっていたため、鈴木一族が分裂したのかもしれません。
ただ、松平氏と良好な関係にあったと見られる足助鈴木氏も、後に松平氏に攻められています。それは1525年の事で、松平清康が足助城を攻め、鈴木重政が降伏しています。1503年から1523年までの間、松平氏は松平信忠が当主でした。松平信忠は暗愚とされ、武勇・情愛・慈悲の何れも無かったそうです。すごい言われようですw周囲の勢力や家臣と揉めまくりそうな人物です。・・・ただそう勘ぐっただけで、何もわかりませんけど

廃城がいつ頃なのかはわかりませんでした。周囲の状況から推測すると、1549年に松平広忠が暗殺され、今川義元が攻めた後と思います。三河に侵攻した今川軍に、高橋荘があまり抵抗した様子がありません。桶狭間の戦の直前の1558年に、一部が織田信長に寝返り、松平元康に攻められましたが・・・これが徳川家康の初陣でした。寺部城はこの時陥落し、城主の鈴木重教は今川家に帰参したため、役割を終えたと思われます。ただ、たぶんですが、古瀬間城は戦の時にだけ使われた陣城ではないかと思います。寺部の鈴木氏はその後、高橋荘に進出した織田家臣・佐久間信盛に1566年に滅ぼされました。高橋荘は三河ですが、関ヶ原の戦が終わるまで織田家の領地でした。
所在地:愛知県豊田市志賀町
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