2016/03/28
丸根城/愛知県豊田市
丸根城は堀がよく残っています。訪問日は2014年8月6日です。

▲図 拡大表示
これは主郭の説明板に載っていた図です。周りを堀で囲まれ、2つの郭が連なっています。説明板では「3つの曲輪から成る」なんて書かれているのですけどw郭と曲輪、どちらも「くるわ」ですよね?私はよく「郭」を使いますが、単純に字数が少なくなるからです。何がちがうのかご存知の方がいらっしゃったら、ぜひ教えて下さい^^

▲城址碑
さて、いきなりですが城址碑です。城跡の入口にこんな立派なのがあります


▲堀跡
まだ城内に入る前から写真撮りまくってます


▲空堀
さて、城内に入り通路となっているのが、北曲輪と主郭の間の堀です。お城の規模の割に、堀がかなり立派な感じです。

▲主郭
主郭はしっかり削平された、結構広めの空間です。外周には土塁をイメージして木が植えられているのだそうです。しっかり囲まれた空間って、やっぱり落ち着きますね

◆歴史◆
築城年代不明ですが、丸根宗勝が城主と伝わります。
丸根城でググっている内は、歴史不明とか丸根宗勝が城主だった、くらいしか出てきません。さらに出てくるのは、徳川家康が三河統一の時にここを攻めて落城させた事くらい。あまりに断片的過ぎるので、ちょっち燃えました

もちろん、丸根城の全てを解き明かせた訳ではありませんが・・・色々と妄想させて頂きました

まずは、手掛かりとなるのが「丸根氏」です。どんな氏族なのかとググリまくりましたが、やはりあまり出てきません。でも、数少ない検索ヒットから見えた事は、松平氏の一族だという事です。
初代は丸根家勝で、安祥城を攻略した松平信光の子です。丸根家勝は源八郎とか美作守とも呼ばれ、磯辺城を居城としていました。磯辺城は岩津城に近く、1501年の『丸根家勝等連判禁制』には岩津姓の名が多く登場します。松平信光は子らを各地に配置し、松平氏の支配地域をかなり拡大した人物です。
ただ、丸根城は岩津城や磯辺城からはかなり北にあります。地図で見ると、高橋荘の主・中条氏が支配する挙母のすぐ東に位置します。丸根城のすぐ東にある古瀬間城について調べると、高橋荘攻略の最前線だったそうです。その最前線よりも更に高橋荘に近いのが、この丸根城です。
徳川家康の三河統一戦で落城したと伝わります。
おそらく時期は1560年頃と思われますが、徳川家康に攻められています。落城した時の城主は、丸根家定とされます。推測ばかりが続きますが、丸根宗勝の子か孫と思います。
今川義元が桶狭間で討たれる前後に、高橋荘で戦がありました。それは、高橋荘の鈴木氏や三宅氏の大半が、尾張の織田信長に寝返ったからでした。今川義元に命じられて彼等を討伐に来たのが、この時初陣の松平元康でした。
桶狭間の戦の後にも高橋荘で戦がありましたが、攻めたのは織田軍の佐久間信盛でした。佐久間信盛はこの辺り一帯で、今川方として抵抗する鈴木氏や三宅氏と戦いました。織田信長と松平元康の間では、高橋荘は織田家が領有すると取り決めがあったようです。織田家による高橋荘の支配は、関ヶ原の戦が終わるまで続きました。なので、徳川家康がこの辺りを攻めるとすれば、それ以前の事と思います。
ただ、落城した後の城主や廃城の時期などが全くわからず。統治拠点として領主が暮らす城ではなく、戦の時にだけ使う陣城だったのかもしれません。
所在地:愛知県豊田市野見町(丸根城址公園)
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