2013/04/14
辛垣城/東京都青梅市
奥多摩の城跡第2弾は、辛垣(からかい)城跡へ。支城である枡形山城跡に続く本編です。
辛垣城へ登るルートはいくつかあります。
地図で見ると、JR二俣尾駅付近から北に伸びる道が幾筋かあります。おそらくはそのどれもが北にある辛垣城のある山につながっていると思われます。それは、城内を東西に通るハイキングコースから麓に下る道がいくつもあったからです。

▲現地説明板の図を借りて説明します(拡大)
枡形山城跡は、上の図では右下の右側の赤い線の右下にあります。私は泉蔵院の脇から枡形山城跡を経由して辛垣城へ行きました。ルートは一番下にある地図をご参照下さい。 今回ブログで紹介するルートは泉蔵院→枡形山城跡の続きで
名郷峠
→水色の線を右下から左上
→そのまま左上へ進んだ先で赤いルートに合流
→赤いルートを左上から右下へ
→名郷峠からは図の右下の左側を下る
→二俣尾駅です。

▲物見山の鉄塔脇から見た辛垣山
枡形山城跡から北の稜線を一旦下り、次に現れるピークが物見山です。名前からして物見台の役割を果たしたのでしょうね!ただ、それっぽい地形ではありますが、遺構は見当たりません。ここの鉄塔脇からは、これから向かう辛垣城がよく見えます。

▲名郷峠
名郷峠では道が分かれていました。矢印では北にも道があるようですが・・・ボンクラな私には見えませんでした


▲名郷峠側から見た曲輪9、曲輪8
名郷峠から西へ進むと、ちょっと雰囲気が変わります。とりあえず撮って進むと、そこから辛垣城の城域となりました。図を見比べると、曲輪9とその上の曲輪8でした。

▲辛垣城への登り口(東)
ハイキングルートのすぐ脇に現れた案内標柱。目的地の名前が書かれていると、何も考えずに飛びついてしまいます。お、いよいよだ!ということで、急な坂をよじ登ります。

▲曲輪8を下から
登り口は曲輪9で、そこから曲輪8を見たのが上の写真です。切岸の脇を細い道が登る造りです。これは枡形山城の主郭と3郭の間にあった構造と同じです。曲輪8へ上がると、しばらくは平坦な道となりますが・・・

▲主郭への入口
眼前には「これ登るのかよ」といった感じの壁がwその「壁」をちまちま登って行くと、突然高さ10mはあろうかという切通しが現れます。事前に採石のため主郭は大きく削られているとは知っていましたが・・・これほどとは思いませんでした。

▲大きく掘り下げられた主郭
その切通しを通り抜けると、高土塁に囲まれたような空間に出ました。なんだか詰め物の取れた奥歯の中に居るような感じですwその真ん中には1枚の白い板が・・・!説明板がありました。間違いなく、ここが辛垣城の主郭跡ですヽ(´ー`)ノ

▲説明板(二俣尾駅の登城口、主郭、曲輪4にあります)
説明板にはザックリ簡潔に説明が書かれていました。どこのサイトの情報も、ひと言で説明すればこんな感じなんですが・・・それじゃつまらないですよね?

▲上から見た主郭
虫歯・・・じゃなくて主郭を上から見た所です。深さは5mはありそうです。元々がこの地形なら、それはそれでアリですが・・・見るも無残に破壊されてしまっています。

▲辛垣山の山頂
主郭から西へ進むと、堀切っぽい窪みがありました。堀切っぽいですが、遺構なのかどうかというと何とも言えません。あれだけザックリ削られたすぐ脇ですから。
その「窪み」を過ぎた所に、また1つ削平された場所があります。そこには「辛垣山457m」と書かれていました。こういう手書きのって味があって好きです。

▲主郭西の堀切
山頂の平場を過ぎると、またまた急斜面が現れ、そこに道がありました。その先を見ると、一旦窪んでまた盛り上がる地形・・・!こちらは間違いなく堀切です。
そこから先はまた稜線上の道になり、特に遺構が見当たらなくなります。ですが、5分ほど進むとまたザックリ感たっぷりな場所にでます。
ここも主郭同様に石灰岩が採掘されたのでしょうか。5m~10m位はガッツリ削られています。明らかに人口的な感じですが、城跡のものとも違いました。
この平場で主郭を通る道とハイキングコースが合流します。あとは帰るだけなので、ハイキングコースを東へ進みます。

▲曲輪2
ハイキングコースは城跡を通るルートとは違って平坦です。さっきまでの足元を確かめながら恐る恐る1歩ずつ、という恐怖がありません。こんな山奥に道を作ってくれた先達には感謝感謝です^^このハイキングコースを歩いていると、右側(南)側に三角形の平場が現れました。図の曲輪2です。
地図などを見ると、その先が尾根になっており、更にその下にも曲輪があるようです。主郭も見ておなか一杯な私は、そこまで見に行く元気もなく・・・・1枚だけ撮ってそのまま道を進みました。

▲曲輪4
すると、再び道の右側に三角形の平場が現れました。図の曲輪4です。ここにも説明板がありました。しかも、ここには実測の縄張図まで付いています!一番上の図は、ここの図を拡大したものです。

▲曲輪4にある説明板
この平坦なルートは名郷峠まで続きます。ここで南側に下ると、二俣尾駅の裏側に出ました。登った所からは少し西側に下りたので、そこまで歩いたのですが・・・平地の道は歩きやすいですね!やっぱり私は山登りは嫌いなようですw
◆歴史◆
辛垣城は室町時代に三田氏が支配するお城でした。三田氏は室町時代に杣保(奥多摩一帯)を支配し、勝沼城を本拠としていました。関東管領・山内上杉氏に仕え、それなりに活躍して重く用いられていたようです。
1546年に後北条氏が扇谷上杉氏を滅ぼすと、武蔵の豪族達は後北条氏に鞍替えしました。三田氏もこの時に後北条氏に仕え、所領を安堵されています。
1560年、三田氏の旧主・山内上杉憲政の要請により、長尾景虎が関東に出陣しました。景虎は各地で後北条氏の勢力を圧倒して南下しました。すると、それまで後北条氏に従っていた豪族達は、競うように景虎の軍門に降りました。三田氏もこの流れに従い、景虎側につきます。この時に景虎は、鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領職を譲り受け、上杉政虎と改名しました。
しかし、上杉軍が越後へ帰ると、関東の豪族達は再び後北条氏に帰属しました。今後、関東の小勢力はこの動きを繰り返すこととなります。ですが、三田氏は後北条氏には戻らず、上杉方として後北条氏に抵抗を続けました。この理由は今でも謎のままとなっています。
そのため、1561年から滝山城主・北条氏照による攻撃を受けました。三田氏は本拠であった平山城の勝沼城を捨て、山城である辛垣城に籠りました。
辛垣城は天険の要害で簡単には落城しませんでしたが、孤立無援のため、2年後には落城。三田氏当主の綱秀は、反北条勢力である岩槻城の太田氏を頼って落ち延びました。
その後、辛垣城は歴史の舞台には登場しなくなります。
三田綱秀は、落ち延びた先の岩槻城で太田資正とともに後北条氏と戦います。ですが、1564年にあった第二次国府台合戦で後北条氏に大敗し、綱秀は切腹して果てました。残された2人の遺児も程なく病死したため、独立勢力としての三田氏は滅亡しました。
尚、綱秀との続柄は不明ですが、一族の中には後北条氏に仕えた者もいました。後北条家臣団の中に三田治部少輔や三田三河守などの名があります。後北条氏滅亡後は徳川家康に仕え、旗本として家名は存続しました。
所在地:東京都青梅市二俣尾
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