2016/03/27
成瀬城/愛知県豊田市
成瀬城は足助七城の1つです。訪問日は2014年8月6日です。

▲郭跡
成瀬城跡にはかつて老人ホームがあり、その建設の際に大半が破壊されたそうです。その老人ホームの跡地が写真で、現在は更地となっています。主郭はかろうじて残っているそうですが・・・それを知ったのはついさっきで、訪問当時は「完全に消滅した」と思い込んでいました


▲黍生城跡への案内
更地の一角には、こんな立て札がありました。黍生山への道案内です。その中に「黍生城跡」という文字も見えます。足助七城の1つである黍生城へは、ここから登れるんですね!真夏


◆歴史◆
室町時代はじめ頃に築かれたと考えられます。
尾張藩家老で犬山城主となった成瀬氏発祥の地です。その歴史は古く、鎌倉時代終わり頃から室町時代はじめ頃にまで遡ります。1331年、後醍醐天皇の第3皇子・平勝親王が二条良基を伴って足助郷に下りました。これは南朝方の足助重範の力を借りるための事とされます。その足助重範は、同年9月に大和国であった笠置山の戦で宮方として大活躍しました。しかし、衆寡敵せず敗れて捕まり、翌年京で処刑されました。
で、成瀬氏の祖とされるのは、二条良基と足助重範の娘・滝野の間に生まれた子です。二条良基が足助に来たのは13歳の時だった筈ですが・・・wこの人物は8歳で元服し、10歳で従三位権中納言となった凄い人です。Wikipediaでは足助に来た事には触れられておらず、その後も京で凄腕を振るったそうです。成瀬氏側でも家系図を焼失しており、伝承として伝わるのみです。
滝野の子は足助荘成瀬郷に城を構え、成瀬基久と名乗るようになりました。成瀬氏は早い時期から松平氏に仕えたそうで、松平氏初代・親氏にまで遡ります。松平親氏は実在が疑われている人物なのですけど・・・それ程早くから従っていた、というふうに捉えましょうw
松平親忠の代の時、成瀬氏は木戸村、六名郷に移ったとされます。どこら辺かと思い調べると、岡崎城のすぐ南側でした。足助氏が鈴木忠親に圧迫されて没落したのは、このすぐ後の時代と思われます。鈴木氏は、以後5代にわたって足助の地を支配しました。
成瀬城単体の歴史がサッパリわからないので、足助鈴木氏の動きを書きます

1525年、松平清康が足助を攻め、鈴木重政が降伏しました。
1535年、守山崩れで松平清康が没すると、鈴木氏は松平氏より独立。
1554年、松平広忠亡き後の三河統一を進める今川義元に攻められ降伏。
1560年、桶狭間の戦で今川義元が討死。
1564年、松平家康に足助城を攻められ、鈴木氏は再び降伏。
1571年、武田信玄に攻められ、武田家臣・下条信氏が城代となる。
1573年、徳川家康が足助一帯を奪還し、鈴木重直に旧領を与える。
1590年、鈴木康重が徳川家康の関東移封に従い、足助城が廃城となる。
成瀬城が使われていたかどうかは?ですが、遅くともこの頃までに廃城になったと思われます。
所在地:愛知県豊田市足助町成瀬
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