2016/03/24
妹背城/鹿児島県薩摩川内市
妹背城(いもせじょう)は渋谷一族・高城氏の本拠地でした。訪問日は2015年12月30日です。
前回、ついうっかりキーワードが出てしまい、火が点きました

ということで、最近迷子になった妹背城を紹介します。一気に鹿児島ですw
薩摩といえば島津氏ですが、鎌倉時代から戦国時代にかけて覇を競った一族が居ました。それが渋谷一族で、東郷氏・祁答院氏・鶴田氏・入来院氏・高城氏の五氏です。そのうちの高城(たき)氏の本拠がココでした。
しかし、なぜかここを訪れたというブログがかなり少ないです。それは実際に訪ねてみてわかりましたが、場所がとっっってもわかりづらいのです。なので、今回は城址碑に至るまでの道筋を中心に紹介します。高城氏は薩摩の大族なので、うっかり歴史を調べ始めると収拾がつかなくなりそうです。

▲高城神社
まずは高城神社へ行きました。というより、車を停めさせてもらいました。ここらは道が狭く、路駐出来る場所がないからです。

▲高城秋月の説明板と生誕地の碑
名前が名前なのでちょっと気になりましたが、色々ありました。まずは高城秋月の説明板と生誕地の碑です。高城秋月は城主様の一族で、周防まで行って雪舟に師事したのだとか。薩摩に戻ると島津忠昌に招かれ、絵画の指南をしたそうです。・・・おっと、脇道脇道

他にも東郷高城氏の石塔群があります。こちらは高城(たき)氏の後に高城郡を治めた高城(たかじょう)氏の墓石だそうです。高城(たかじょう)氏は高城(たき)氏と同じ渋谷一族で、東郷氏の庶流です。・・・この辺までにしときます


▲妹背城の案内
さて、神社から小学校脇を通って表通りに出て、最初の横断歩道を渡ります。すると、その角にこの案内があります。・・・レンズ汚れててすみません


▲案内から最初の十字路を左へ
・・・書いちゃいました

まだ誰も書いていない、妹背城の城址碑までの道のりです!

▲そのまま道なりに進んで突き当たりを右へ

▲ずんずん道なりに進み

▲民家に突き当たる所で左へ
ここからは車では進めません。
というか、ほぼ獣道です。

▲ほらw
でも、ここはまだ道がはっきり分かる所です。先に進むにつれて道は無くなり、低い藪を掻き分けて進むことになります。

▲左側に段差が現れます
ちょっと進むと、左側がちょっと高くなった場所に出ます。それっぽいなと思い散策しましたが、どうやら郭のようでした。ここに城址碑あるかな?なんて草を掻き分けましたが、見つかりませんでした。

▲城塁
元の獣道に戻って更に進むと、今度は進行方向を遮るかのような城塁が現れました。高さは5mほどある垂直の絶壁で、よじ登るのは不可能に思えました。この脇を更に進みますが、もはや道はありません。

▲虎口?
先ほどの絶壁から更に数十m進むと、左側にえぐられたような感じの所に辿り着きます。城域に入っちゃいるんでしょうけど、この藪じゃぁなぁなんて一瞬気分が萎えましたが・・・じぃっと見ている内に、何となく上に上がり易そうな所を見つけました。

・・・なんて、とても文章だけで表現できそうにありません。写真はただの藪なので、あきらめてイラスト描いちゃいました。こんな感じですwww

▲城址碑(見つけた時の感じで)
なかば諦め気味で、郭内の様子を拝んで帰ろうと思った矢先に見つけました。やっぱり、ちょっと欲深に攻めた方が、願いは叶うもんなんですね


▲城址碑(遠慮なく)
せっかくなので大きく載せちゃいます

ちなみに、けっこう草深いので冬場がよろしいと思います。あと、草深いので、細かい遺構は見えません。何となく「段差があるな?」という感じでした。
◆歴史◆
1248年、渋谷一族が薩摩へ移って来ました。
前年にあった宝治合戦の功により、渋谷氏は薩摩北西部に広大な所領を得ました。当時は所領をもらっても現地に赴かないのが通例でしたが・・・渋谷氏は嫡男以外は皆、薩摩へ行かせました。北条氏が有力武士を何度も粛清していた時期なので、難を逃れようとしたのでしょうか。
渋谷重国の嫡男・光重は相模国高座郡渋谷荘に残り、弟5人が薩摩へ赴きました。次男は東郷、三男は祁答院、四男は鶴田、五男は入来院、そして六男の子が高城です。高城を与えられた六男・重定の子・重秀は、当初は阿久根の大川に館を構えました。
5代目の高城重雄が、妹背城に本拠を移しました。
・・・それまでは高城郡内の別の場所が本拠だったんですね

1422年、高城(たき)氏が妹背城を失いました。
同じ年、島津氏で大きな動きがあり、連動していたと思われます。・・・高城氏のことで調べても何も出てこなかったので

その後、1485年にその水引城も島津国久に落とされ、領主としての高城氏は没落しました。高城重頼は祁答院氏のもとに逃れ、その家老として家は存続しました。
東郷氏が進出し、妹背城に入りました。
この頃、高城に東郷氏が進出し、東郷重信の弟・重隆が妹背城に入りました。重隆は高城(たかじょう)姓を名乗るようになり、東郷流高城氏が派生しました。高城神社の所にある石碑は、東郷高城氏の墓碑群です。高城(たき)神社ですが、なぜか高城(たき)氏の墓石は見つかっていないそうですがw
東郷氏の内紛により、高城(たかじょう)氏が高城を失いました。
年次は不明ですが、東郷高城氏2代目の高城重誠が、東郷氏により高城の地を追われました。高城重誠は入来院氏を頼って落ち延びました。その嫡男が後に島津羽州家を継ぎ、文禄・慶長の役に出ています。なので、戦国時代真っ只中の1560年代の出来事ではないか?と思います。それは、島津羽州家の件を命じた島津義久が、1566年に家督を継いでいるからです。
1547年、東郷重治が島津義虎と対立しました。東郷重治が島津義虎家臣の秘蔵の犬を盗んだのが事の発端のようですが・・・以後、23年もの間戦いが続きました。
1570年、東郷氏が島津氏に降伏しました。この頃、薩摩で島津氏と争っていたのは東郷氏と入来院氏だけだったそうです。島津氏は大隅、日向に勢力を拡大し、敵わないと思ったのでしょうか。両氏は島津氏に降り、領地を差し出しました。この時、高城の地は島津義虎のものとなりました。
その後・・・
1587年、九州征伐後、高城郡は豊臣家の直轄地となる。
1598年、豊臣秀吉が死去
1599年、文禄・慶長の役の戦功として、高城郡が島津家に返還。
1613年、外城制が確立し、妹背城の麓に地頭仮屋が置かれた。
所在地:鹿児島県薩摩川内市高城町城内
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コメント
無題
2017/09/09 19:31 by 池ぽん URL 編集