2016/03/21
東広瀬城/愛知県豊田市
東広瀬城は川沿いの丘にありました。訪問日は2014年8月6日です。

▲城址碑
城跡の南側を走る県道沿いに、この立派な城址碑があります。豊田市さん、気合バッチリです


▲土塁
城址碑の所から数十m進むと、道を横切るように土塁があります。場所から誰でも思いつく推測をすると、城主様の館を囲んでいたものと思われます。お城自体はそんな高い所にある訳ではありませんが、流石に毎日上り下りはキツイですからねwで、ここには「お城こっち」なんて案内が出ていません。城キチ達が各地で迷子になるのは、こういうツメの甘さから来るものと思います。・・・と、大してお金も落とさないケチなヤツが言うもんじゃありませんね


▲登城路
事前に調べていたので、「東海自然歩道」を辿って土塁上を進みました。すると、右カーブした先に立派な鳥居が見えて来ました。事前に調べていたとはいえ、現地でその通りに進めているかどうかは疑心暗鬼なものです。ここは主郭に神社があるので、道がちゃんと合っているのだとやっと安心できました。

▲2郭
神社への参道を登って行くと、腰郭のような平場に出ました。ここが2郭です。細い郭が曲がっているのは、先を見通せないようにするためでしょうか。

▲階段
2郭から真っ直ぐ斜面を上がる階段があります。さすがは神社w本来の道がどこにあるのかは、城の構造を知る上で大変興味があるのですが・・・100%の確率で楽な方へ進んでしまうのが悪いクセです


▲広瀬神社
階段を上ると、そこには神社が。ここが主郭で間違いないようです。

▲城址碑
社殿のすぐ左脇にある存在感アリアリな石碑が城址碑です。年季モノのようで、こういうの大好きです

◆歴史◆
1342年、児島高徳により築かれたと伝わります。
伝承では、南朝方の英雄・児島高徳により築かれたと伝わります。児島高徳ってどんな人?ってググッたら、Wikiにえらい長文のが出てきてビックリ。そんなに有名な人なんだ!って思ったら、実在したか疑わしいなんて説もあったりします。児島氏はその名の通り、備前国児島を本拠地とした武士です。どんな人物なのかをザックリ紹介すると・・・
・生まれは備前
・根っからの皇族ラブ
・でもちょっとドジかも
・足利尊氏により本拠地を落とされた
・新田義貞に従って北陸や東国を転戦するも敗れる
・再起を図ろうと吉野の後村上天皇のもとへ逃れた
・以後の消息は不明
・『太平記』にしか登場しない
やれば出来るもんですw
今度からザックリ頑張ります。
三宅氏の居城でした。
ここら辺から実在っぽくなりますが、児島氏の子孫と称しています。三宅氏は室町幕府奉公衆・中条氏の被官で、高橋荘北部に勢力がありました。中条氏は足利氏とは古くから付き合いがあり、北朝方だったのですが・・・細かい事は気にしない!
で、三宅氏は各地に一族を配置しており、4つの城をもっていたようです。広瀬城もその1つで、後に徳川家康に仕えたのは伊保の三宅氏です。戦国時代に広瀬城に居たのは、別流の三宅光貞や三宅高清でした。とはいえ、動きは他の三宅一族と一緒で、松平氏と争っていました。
1533年、佐久間全孝が広瀬に攻め込みました。
佐久間全孝は佐久間信盛の父です。織田信秀に仕え、三河北西部の攻略を任された人物です。三宅氏は松平氏と争っていましたが、織田方ではなく独立勢力でした。三宅氏は広瀬の地の大半を奪われ、この時に東広瀬城を築いたのかもしれません。佐久間全孝が居城としたのは西広瀬城で、その北には広瀬古城というのがあるので。
ただ、あちこち読んでると、広瀬には広瀬城、古城、西城、東城とあったようです。その上、肝心な所になるとこれらが省略され「広瀬城」で括られて表記されます。もう何処がどうなったのかぐちゃぐちゃに混乱しましたアハハ
で、西広瀬城は東広瀬城から橋を渡ってすぐの尾根上にあります。ここで川を挟んで両城は対峙し続けたものと思われます。
その後、守山崩れで松平家が崩壊すると、三河は今川義元が取り込みました。さすがの三宅氏も今川義元には従いました。
1549年、佐久間全孝が暗殺されました。
同じ年にあった松平広忠暗殺は、佐久間全孝の刺客によるとする説があります。そのせいでしょうか、その報復として佐久間全孝に刺客が送られ、暗殺されました。この頃は三宅氏も松平氏も同じ今川家臣だったので、協力したものと思われます。以後、東広瀬城の三宅氏を中心とした今川軍が、西広瀬城を攻め続けました。そして、1554年に三宅氏が西広瀬城を奪還しました。
1558年、今川軍に攻められました。
今川軍のバックアップで西広瀬城を奪還した三宅氏でしたが・・・三宅氏や鈴木氏など、高橋荘の国人衆が織田信長に寝返りました。そのため、今川義元は松平元康に命じて高橋荘を討伐。三宅氏や鈴木氏の一部は滅ぼされました。しかし、同年中に三宅氏は広瀬を奪還しました。
1560年、松平元康により攻め落とされたようです。
松平元康により攻め落とされた、とあちこちに書かれています。桶狭間の戦の前なのか後なのかは?ですが・・・推測すると、1558年に松平元康が攻め落とした時、城主の三宅氏は織田方でした。なので、松平元康がまた攻めたのも、織田方だったから攻めた可能性が高いと思います。
松平元康は、今川義元が桶狭間で討たれた後、空になった岡崎城を乗っ取りました。そして、今川家から独立して三河平定に動き出しました。ここで高橋荘を攻めたという動きがあったかどうか・・・
松平元康は1561年に東条城の吉良氏と戦い、降伏させました。同じ頃に高橋荘を攻めていたのは、織田信長家臣の佐久間信盛でした。佐久間信盛は金谷城を攻め、城主・中条常隆は戦わずして城を明け渡しています。その後、佐久間信盛は高橋荘内にある鈴木氏の寺部城も攻略しました。清洲同盟の際、織田と徳川で領地の線引きがされたハズです。三河の高橋荘を織田家が切り取っていたのは、同盟によると思われます。
なので、松平元康が攻め落としたとすれば、桶狭間の前ではないか?と思います。高橋荘は、関ヶ原の戦が終わるまでは織田家の領地でしたから。
所在地:愛知県豊田市東広瀬町
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