2016/03/21
寺部城/愛知県豊田市
寺部城は神社と公園になっています。訪問日は2014年8月6日です。

▲入口
寺部城跡は住宅街の突き当たりにあります。一見すると緑豊かな公園に見えますが、ここには神社もあります。入口の所に守綱神社について書かれた説明板があります。その最後にちょっとだけ、ここに寺部陣屋があったことが書かれています。

▲守綱神社
その神社です。珍しい名前の神社ですが、江戸時代にこの地を治めた初代領主様の名前でした。渡辺守綱は徳川家康に仕えた猛将で、槍半蔵と呼ばれた徳川十六神将の一人です。・・・おっと、詳しくは後ほど


▲土塁
ふぅ~んと思いながらブラブラしていると、奥の方は芝生が広がる公園になっていました。住宅街にあるよく整備された公園だなぁ~なんて思っていましたが・・・縁の所が、ちょっと、盛られ気味!ちゃんと土塁で囲まれていますヽ(´∀`)ノこの土塁はずっと巡っていて、竹薮の中にまで続いています。

▲石碑
そしてそして、何やら怪しげな石碑をハッケン!ゼッタイ城址碑だ!と思って近づいてみましたが、何やら説明書きが彫られているのみ。何だかよくわからん石碑だなぁ~なんて思っていましたが・・・ヨソ様のサイトでは、どこもちゃんと「寺部城址」と彫られた石碑が載っています。も、し、や?と思ってよぉっく見直すと、どうやらこれは裏のようです。形を見ると、上の方のなで肩具合の左右が逆なので。反対側からは見てなかったのですが、すぐ下に道があり、そちらから見るのが正解でした。ぁぁぁ、ゃっちまいました

◆歴史◆
文明年間(1469~87年の間)に鈴木重時により築かれました。
当時は挙母の金谷城を本拠とする中条秀章に従っていました。中条氏は鈴木氏や三宅氏、阿部氏などを従え、三河北西部を支配した幕府奉公衆です。鈴木氏は松平郷より北西に支配地域があり、各地に一族を配置して栄えた一族です。
応仁の乱が始まった頃の三河は、細川成之が守護を務めていました。細川氏の前の守護だった一色氏が三河奪還に燃え、細川氏と争っていました。幕府政所執事の伊勢貞親も、三河の被官だった松平氏と戸田氏に一揆を扇動させていました。この頃の中条氏の立ち位置は不明です。
中条秀章は将軍・足利義政に近侍していたので、どちらかと言えば東軍寄りだったと思います。額田郡一揆を扇動した首謀者である伊勢貞親は、足利義政の側近中の側近でした。また、三河では細川成之が東軍、尾張知多分郡守護の一色義遠が西軍でした。
ただ、三河では単純に東軍とか西軍で割り切れない状況でした。松平氏や戸田氏は伊勢氏の指示で、同じ東寄りの細川氏の妨害をしています。個々の利害関係で争っていたようなので、中条氏は動かなかった可能性が高いです。
ただ、所領を拡大する一方の松平氏は、中条氏にとっては脅威だったと思われます。1465年の額田郡一揆討伐で松平氏は勢力を拡大し、1471年には安祥城を手に入れています。松平信光の勢力圏は、中条氏の支配地域を囲むようになっていました。
1493年、中条氏が松平氏に敗れました。
中条秀章が鈴木氏や三宅氏、阿部氏、那須氏らを率いて、安祥の松平親忠を攻めました。兵力は中条方が3000に対して松平方は1500と、数の上では中条方が優勢でした。両軍は岡崎城の北にある井田野で激突し、松平方が大勝利を収めました。これにより中条氏は支配力を失い、鈴木氏ら各被官が自立するようになりました。
寺部の鈴木氏は松平氏と争い続けていました。1533年には、岩津で松平清康と戦っています。松平清康没後、三河に進出してきた今川義元には従ったようです。
1558年、松平元康に攻め落とされました。
離反して織田方となったため、今川義元の命令により松平元康が寺部城を攻めました。これが松平元康の初陣だそうです。鮮やかな戦ぶりに今川義元が感心し、太刀と300貫の領地を与えたそうです。
1566年、廃城となりました。
経緯は?ですが、織田信長家臣の佐久間信盛に攻められて落城しました。城主・鈴木重教は今川家を頼り、駿河へ逃れたとされます。挙母の地は織田信長家臣・与語正勝に与えられました。
1610年、渡辺守綱が城跡に陣屋を築きました。
徳川十六神将の一人・渡辺守綱が城跡に陣屋を築きました。これは尾張藩付家老に任じられたためで、武蔵国から移ってきました。以後、明治維新に至るまで渡辺家が治めました。
尚、寺部陣屋にあった門と茶室が移築され現存しています。門は安城市の誓願寺、茶室は挙母城の隅櫓の隣に「又日亭」として移築されています。どちらも写真撮っていません

所在地:愛知県豊田市寺部町(守綱神社)
愛知県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント