2016/03/20
挙母城/愛知県豊田市
挙母城(ころもじょう)跡には櫓が再建されています。訪問日は2008年7月12日です。
挙母城は別名・七州城とも呼ばれています。あちこちに書かれていますけどwその「七州」とは7つの国で、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江が見えるそうです。海抜60mそこらなのに、そんなに見晴らしが良いのかと疑いたくもなりますが・・・信濃や近江が見えるのに、志摩とか伊賀は見えないんですねwww

▲隅櫓
城跡は豊田市立美術館となっていますが、その一角にこの櫓があります。当時はまだ城巡りを始めたばかりで、建物がある所ばかり訪ねていました。これを天守だと勘違いしていたのは、ここだけのヒ・ミ・ツです


▲城址碑
そんなヒヨッ子城キチだったので、撮った写真は
◆歴史◆
1780年、内藤学文により築かれました。
内藤学文は紀州藩主・徳川宗将の4男で、内藤政苗の養子となり家督を継ぎました。養父・内藤政苗が隠居したのが25歳という若さでしたが、それなりに大変な事情がありました。それは、たびたび矢作川が氾濫を起こすため藩の財政はジリ貧。そのうえ、家臣どうしの争いも絶えないという有様でした。そのため、内藤政苗は1756年から佐久良城の大改修に取り掛かりましたが・・・1765年、1766年と大洪水に見舞われ、城の改修工事が絶望的な状況となりました。幕府から4000両もの大金を借金していたのに、ですw何もかも放り投げたくなる気持ち、ちょっとだけわかりますよね?
そんな内藤家に、将軍家の一門から養子が入って当主となりました。これで、とりあえず家臣どうしの争いは収まったものと思います。藩主となった内藤学文は、まずは治水工事を行いました。さらに、童子山への築城を幕府に願い出て許可をとり、新たに城を築きました。
これが挙母城です。
内藤学文は、1787年に藩校・崇化館を創設。自ら教鞭を執るほどの熱の入れようでした。
1871年、廃城となりました。
その後も挙藩主・内藤家では子に恵まれず、3代目から6代めは養子が家を継ぎました。5代目と6代目は彦根藩主・井伊直中の子で、あの井伊直弼(14男)の兄です。最後の藩主である7代・内藤文成は挙母内藤家では最初で最後の実子による家督相続でした。しかし、明治3年の廃藩置県により挙母城は廃城となり、翌年には取り壊されました。
1977年、隅櫓が再建されました。
明治以降、城跡は小学校や高校になっていました。これらが移転した後、1995年に豊田市立美術館が現在地に建てられました。隅櫓再建はそれより前だったんですね!なお、隅櫓再建に合わせて、すぐ隣に寺部城の書院だった「又日亭」が移築されました。本当は解体される予定だったそうですが、豊田市が譲り受けて現在地に移したそうです。豊田市さん、やりますね

所在地:愛知県豊田市小坂本町
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