2016/03/20
佐久良城/愛知県豊田市
佐久良城跡は公園となっています。訪問日は2014年8月6日です。

▲桜城址公園
佐久良城は別名・桜城と呼ばれています。由来は名前の通りなのですが、周りに桜の木が多いのだそうです。今では城跡に限らず公園には桜の木は多いですけどね!

▲櫓台
公園の入口からもバッチリ見えていますが、石垣の立派な櫓台があります。周りはガッツリ市街地なので、お城らしいものはこれだけですが・・・逆に周りが周りなので、よくこれだけ残したな!と感心してしまいます。

▲城址碑
で、肝心の城址碑は石垣の裏側にあります。どういう意図があってかは知りませんが・・・石垣だけバッチリ撮りたい派には、歓迎すべき位置なのかもしれません^^
◆歴史◆
1604年、三宅康貞により築かれました。
三宅康貞は14、5歳だった1558年から徳川家康に仕えた、三河武士の1人です。父・三宅政貞は尾張国境近くの梅坪城主で、守山崩れ以降は織田家に従っていました。しかし、1558年に松平元康に梅坪城を攻められて降伏し、以後松平家に従うようになりました。母親は鳥居忠吉の娘で、三宅康貞は鳥居元忠の甥に当たる人物です。1590年に徳川家康が関東へ移った時は、武蔵国瓶尻(みかじり)5000石を与えられました。
※瓶尻は埼玉県熊谷市(暑い所)辺りです。
関ヶ原の戦では横須賀城(静岡県掛川市)を守っていました。その功により1万石に加増され、1604年に挙母に移って来ました。挙母はかつて三宅氏が仕えていた中条氏の本拠で、金谷城がありました。しかし、老朽化が著しいということで、佐久良に新たに城を築いたのでした。
1620年、三宅康信が伊勢亀山へ移り、一時天領となりました。
三宅康信は三宅康貞の嫡男です。1620年の和子入内(徳川秀忠の娘が天皇家に嫁いだ)の際に、その警護をしました。その功により2000石の加増を受け、伊勢国亀山へ移りました。伊勢の亀山城といえば間違えて天守を解体されたことで有名ですが・・・その時の城主が三宅康信でした。同じ年(1632年)に三宅康信が没しているので、それでかもしれませんね。
1636年、三宅氏が再び城主となりました。
三宅康貞の孫・康盛が伊勢国亀山から移り、再び佐久良城主となりました。三宅氏は三宅康盛の子・康勝が1664年に三河国田原へ移るまで、佐久良城の城主でした。
1664年、本多忠利が城主となりました。
陸奥国石川藩主・本多忠利が城主となりました。本多と言えば藤岡弘、(本多忠勝)???近藤正臣(本多正信)???となりますが・・・仮面ライダー1号の方の家系ですwただし、嫡流ではなく・・・ちょっちややこしいので図を貼ります。

1749年、内藤政苗が城主となりました。
内藤氏も徳川家の譜代家臣です。三河一向一揆の際、一向宗徒だった内藤家は父が一揆方、子が松平方と割れました。この時に松平方についたのが内藤家長で、鳥居元忠と行動を共にすることがよくありました。関ヶ原の戦の前哨戦である伏見城の戦では、鳥居元忠とともに篭城して戦死しています。徳川家康の岡崎時代には、三宅氏とも婚姻関係を結んでいました。
城主となった内藤政苗ですが、この時まだ7歳でした。25歳の時(1766年)に紀州徳川家から迎えた養子・学文に家督を譲り、隠居しています。いくらなんでも早過ぎる気がするのですが・・・
佐久良は矢作川の氾濫により、度々洪水に見舞われていたようです。そのため、1756年から佐久良城の大改修に着手していました。藩の財政はジリ貧だったので、幕府から4000両もの大金を借りての大事業でした。しかし、1765年と1766年に立て続けに大洪水に見舞われ、お城の改修工事は頓挫。家臣団の対立も激しさを増していたので、お殿様稼業が嫌になるのも無理ないですね・・・
1780年、廃城となりました。
家督を継いだ内藤学文は、幕府から更に2000両の借金をしました。このお金を使って高台に新たに城を築きました。この高台はとても見晴らしが良いようで、七ヶ国が見えることから「七州城」と呼ばれました。これが現在、「挙母城」と呼ばれているお城です。内藤氏は実子に恵まれず養子の代が続きますが、明治まで挙母の藩主を務めました。
所在地:愛知県豊田市元城町(桜城址公園)
愛知県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント