2016/03/17
福谷城/愛知県みよし市
福谷城(うきがいじょう)は一部保存されています。訪問日は2014年8月4日です。

▲案内図 拡大表示
図にあるI郭とII郭の間の道が登城路になっています。その道からI郭への入口の板にこの図が載っています。昔のと比べて格段にグレードアップしてますね


▲入口
その入口です。I郭とII郭の間はこんな感じで掘り下げられた空堀だったんですね。道をバッチリ撮った写真もありますが、どこでも載ってるので敢えて載せずw

▲説明板
I郭に入った所にある説明板です。文字アリ、図アリ、見た目のグー!と完璧ですヽ(´∀`)ノ・・・何がどう?って基準はきかないで下さいね。なんとなく、ですから。

▲I郭
図でも何となく分かりますが、保存されている郭はここだけのようです。草ぼーぼーの原っぱの端に、土の壁があるといった感じです。私がこの近所のガキんちょだったら、怒られそうな遊びをしていたと思われます

◆歴史◆
室町時代に築かれたとされます。
築城者は糟谷宗則とされますが、どのような人物だったのかわからず。賤ヶ岳の七本槍の糟谷武則と名前が似ていますが、糟谷武則は播磨の人です

次いで城主の名として挙がってくるのが、原田氏重です。こちらもどのような人物なのかわからず・・・土地の土豪らしいです。色々ググってはみたものの、奥三河や尾張の春日郡に同姓の人物が出てきました。どちらも場所が離れており、同族かもしれませんが、違うかもしれず・・・何が言いたいかというと、わかりませんでした、ということですwww
酒井忠次がしばらく居城としていました。
弘治(1555~58年の間)はじめから、酒井忠次が城主となりました。酒井忠次は徳川四天王筆頭のアノ武将です。1556年には柴田勝家に攻められましたが、撃退しています。織田家中きっての猛将と、徳川四天王が戦っていたんですね!
「1556年」「尾張」というと大事件がありましたよね?織田信長と織田信勝が戦った稲生の戦いです。柴田勝家が織田信勝方の大将として、織田信長と刃を交えた戦です。この年にはいろんな事件があったので、時系列で並べてみます。
1月 織田軍が福谷城を攻める
5月 長良川の戦で斎藤道三が討死
6月 稲生の戦
です。
ザックリ過ぎなのは、性格なので・・・

ちょっと気になったのは、ちょっと西の丹羽氏の動向です。岩崎城の歴史を調べていて、1555年頃の動きがよくわからなかったのですが・・・丹羽氏の岩崎城は、柴田勝家の上社城と福谷城のちょうど真ん中にあります。福谷城に織田方の柴田勝家が攻めて来たということは、丹羽氏は織田方だったという事ですね。
1560年、桶狭間の戦で今川義元が討死しました。
桶狭間の戦で織田信長の奇襲により今川義元が討死しました。織田軍が大高城や鳴海城を包囲されていたことがきっかけのようです。これにより松平元康が今川家から独立し、三河の領地回復が始まりました。
1562年、松平元康と織田信長が同盟を結びました。
今川家から独立した松平元康は織田信長と同盟を結びましたが・・・それは1562年の事で、それまでは小競り合いを繰り返していました。長い間戦いを繰り返してきた仲なので、当然と言えば当然ですがw三河と尾張の国境にあるお城なので、両国が同盟を結ぶと不要になる?と思いますが・・・
1563年、三河一向一揆がありました。
西三河の本願寺勢力が中心となって、大規模な一向一揆がありました。これは西尾城主の酒井正親が、本證寺に逃れた罪人を捕らえた事に端を発するものでした。これが不入の特権を侵すものだとして、本證寺の属する本願寺が反発したのでした。
門徒の松平一門や有力家臣も一揆方となったため、松平家中を二分する深刻なものでした。酒井忠次は松平元康方でしたが、酒井家嫡流で上野城主の酒井忠尚は一揆方でした。福谷城の東側が一揆方だったので、松平元康方の城として防衛拠点になった?かもしれません。
廃城の時期はわかりませんでした

所在地:愛知県みよし市福谷
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