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安祥城/愛知県安城市

安祥城の跡はお寺や神社となっています。
訪問日は2014年8月5日です。

安祥城①案内図
▲案内図 拡大表示

城跡は主郭に大乗寺、2郭に八幡社、3郭に安城市歴史博物館があります。その周りの城域は城址公園として整備され、主郭と2郭の間の堀跡に案内図があります。こうやって見ると、郭の配置こそ残っているものの、かなり破壊された感じがします。

安祥城②堀跡
▲堀跡

主郭と2郭の間の堀跡ですが、掘ったというより地形をそのまま利用した感じです。現在は公園の一部となっています。かなり広いので、城を包囲されて篭城してる時は連絡が取り辛かったのでは?と思います。それでも守るに易く攻めるに難い城だったようです。

安祥城は東~南~西を湿地に囲まれており、攻め口を北に限定する造りだったようです。そのため、主郭と2郭の間の堀は防御施設として考慮されていなかったかも。太原雪斎が織田方の意表を衝いて南から攻めると、たった2日で落城してますし。

地図で見ると城跡を水色が囲んでいますが、後世に造った公園の池といった感じです。かなり大袈裟に描いてるので、ちゃんとした水堀があるのか?と期待してしまいました。現在はただの住宅街となっていますが、城のすぐ北に「城堀」なんて地名があります。かつてはそこに凄い堀があったのかもしれません。

安祥城③城址碑
▲城址碑

お城があったっぽい雰囲気ではありますが、明確な遺構はありません。地形が何となくそれっぽいので、どんな堅城だったのかと想像を巡らすしかありません。そんなお城なので、モニュメントがあるととても嬉しくなります合格この城址碑は、主郭のあった大乗寺の山門前にあります。

安祥城④城塁
▲城塁

主郭や2郭の周りをぐるぐる見てると、こんな感じの城塁が見られます。どちらの郭も周囲よりちょっと高いので、簡単に登れないように端を削ったのでしょう。・・・とは言え、今は簡単に登れそうな感じですあせるわかったように書いていますが、当時まだ私は生まれていないので、全部想像ですw


◆歴史◆

1440年、和田親平が築きました。

安城は志貴荘と呼ばれ、倉時代には安藤氏、室町時代には畠山氏が地頭を務めていました。室町幕府の奉公衆だった畠山宗元が土着し、安祥古城を築いたのが城の始まりです。畠山宗元は和田姓を名乗るようになり、5代目の和田親平が新たに安祥城を築きました。

1471年、松平信光が無血攻略し、安祥松平氏の本拠地となりました。

松平氏は松平郷を本拠とし、室町幕府政所執事・伊勢貞親の被官でした。この頃は応仁の乱の最中で、伊勢氏は西軍、畠山氏は東軍でした。伊勢貞親の指図により、三河西部では松平氏、三河東部では戸田氏が勢力を拡大しました。岩津城主・松平信光が計略により安祥城を攻略し、以後「安祥松平氏」と呼ばれています。この家系が松平氏の宗家となり、後に徳川家康を輩出します。

1531年、松平清康が岡崎城を築きました。

1529年に三河を統一した松平清康は、安祥城の東の岡崎城を整備しました。三河一国を統治しようとすると、安祥城では西に偏り過ぎていたためとされます。本拠を岡崎城に移したとか移してないとかハッキリしませんが・・・子の松平広忠の代には、岡崎城が本拠となります。

1540年代、織田信秀に奪われました。

松平清康は20歳そこそこで三河統一を成し遂げるなど、とても凄い武将でした。さらに勢力拡大を図り、西隣の尾張にも度々兵を出していました。1530年頃には尾張北東部の品野郷や、東部の岩崎郷などを奪っています。しかし、1535年に守山城を攻めた際、家臣に斬殺されて26歳でこの世を去りました。俗に「守山崩れ」と呼ばれ、以後しばらく松平氏は苦しい時期がありました。織田信秀は松平清康の死後、東へ勢力を拡大して三河に攻め込んで来ました。小豆坂の戦いなど数度の戦により安祥城は陥落し、織田方の城となりました。ただ、その年次はハッキリしていません。織田信秀は岡崎城とは川1本隔てた安祥城を押さえ、三河制圧まであと1歩の所まで迫りました。

松平清康の跡を継いだ広忠は、勢力を取り戻そうと四苦八苦しました。父が没した時の広忠は10歳弱で、一時は叔父の松平信定に岡崎城を奪われました。家臣団に支えられ、今川義元の力を借りて何とか岡崎城を奪還しました。ただ、松平家中は急速に求心力を失い、織田や今川に仕える者が少なからずいました。

1545年、松平広忠は織田方となっていた安祥城を取り戻そうと、無謀な戦を仕掛けました。反対する家臣を振り切って起こした戦は案の定大敗し、没落は決定的となりました。

1549年、今川義元が奪い返しました。

1549年、そんな事もあってか、岡崎城内で父と同じく家臣により斬殺されてしまいました。これを受けて素早く動いたのが、駿河の今川義元でした。早速、今川家臣を三河各地に配置し、太原雪斎に2万の軍勢で安祥城を攻略させました。すぐには陥落しませんでしたが、半年後に攻略して城主・織田信広を生け捕りにしました。この時、織田信広と竹千代(徳川家康)が交換され、竹千代は尾張から駿府へ移されました。安祥城には今川義元の家臣・天野景泰、井伊直盛らが城代として置かれました。岡崎城も今川義元の家臣・山田景隆が城主となり、三河を領国化しました。

1551か52年、織田信秀が没しました。これにより、三河と尾張の国境地帯では、今川義元に寝返る者が続出しました。

1555年頃から、織田信長が反撃に転じました。今川義元に寝返っていた山口教継や戸部政直などを、謀略で排除しています。また、今川方の鳴海城や大高城などを、多数の砦を築いて包囲するようになりました。

1560年、桶狭間の戦で今川義元が討ち取られました。

今川義元が織田信長を攻めましたが、桶狭間で奇襲に遭い討ち取られました。今川軍は大将を失って駿河へ逃れ、松平元康は岡崎城を奪って独立しました。

1562年、廃城となりました。

その後、しばらくの間は織田信長との間で小競り合いが続きましたが・・・1562年に松平元康と織田信長は清洲同盟を結び、役割を終えた安祥城は廃城となりました。


所在地:愛知県安城市安城町

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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