2016/03/13
桜井城/愛知県安城市
桜井城跡は道端に城址碑があります。訪問日は2014年8月5日です。

▲道から見た所
桜井城の跡地は城山公園となっています。それと目指して走れば迷う事は無いと思います。ここかなぁ・・・と思っていたら、これがありました。

▲城址碑
ビビッと電気が走る感じがしたので近づくと、やっぱり城址碑でしたヽ(´∀`)ノ建ててくれたのは、やっぱりな愛知縣。あちこちありがとうです


▲城跡の様子
城跡は公園として確保されてはいるのですが・・・流石に廃城から400年以上経った平城ですからね。それなりですw
◆歴史◆
小浦喜平治により築かれました。
現地の説明板によると、小浦喜平治が桜井城を築いたとあります。ただ、それ以上の事はわからず。・・・とは書きつつ、1471年に安祥城を攻略した松平信光に従ったとあります。これも小浦喜平治だったのかどうなのかは???ですが

1520年、松平親房の城となりました。
松平親房は安祥松平氏3代目・松平長親の弟です。この頃、松平長親は一族を福釜城や桜井城、藤井城、東条城などに配置しました。地図で見ると、安祥城から南へ海に向かって一直線な感じです。東西を隔てるようなイメージですが・・・背景調べるとキリが無いので、ここまでに

松平信定が城主となりました。
松平信定は松平長親の子ですが、長親の弟・親房の養子になっていました。惣領の家督は兄である松平信忠が継いでいましたが、暗愚で名を馳せていました。そのため父・松平長親は信定をかわいがり、信定を惣領にしようという動きもありました。
時期は不明ですが、松平清康が惣領となった1523年には桜井松平の家督を継いでいたようです。上に書いた経緯もあって、松平清康とは仲が良くありませんでした。・・・長くなりそうなよ・か・ん

1529年に松平清康が攻め落とした尾張の品野城を居城としました。しかし、松平信定は当時争っていた織田信秀の妹を娶りました。もっと露骨なのは岡崎城乗っ取りです。1535年に守山城攻めの際に松平清康が家臣に殺されると、松平宗家を牛耳ろうとしました。そのため松平清康の嫡男・広忠は伊勢へ逃れた後、今川義元を頼って駿河へ移りました。そして、今川の援軍を得て三河へ迫ると、不利を悟った松平信定は岡崎城を明け渡しました。なかなかの反骨っぷりです。この時松平広忠に降伏しましたが、桜井松平家は孫の家次の代まで織田家寄りでした。
松平家次は東条松平家と争いました。
1549年に松平広忠が殺された後、松平家中は今川義元派と織田信秀派に割れました。これは松平広忠の嫡男・竹千代がまだ幼く、今川義元の手元に置かれていたからです。桜井松平家は織田信秀の妹を娶っており、織田家に近い立場をとっていました。一方、お隣の東条松平家は今川義元に仕えており、領地を巡って争っていました。この争いは1556年に今川義元の裁定により、東条松平家が勝利しています。松平家次は松平元康から尾張品野城の守備を命じられ、織田軍を撃退しました。しかし、1563年の三河一向一揆では、酒井忠尚らとともに一向一揆方に味方したとされます。ただ、一揆の年に没しているため、俗説だと考えられています。
松平忠吉以降は徳川家康に従いました。
松平家次の嫡男・忠正からは従順だったとされます。松平忠正は遠江の掛川城攻めや、近江での姉川の戦いに従軍しました。1573年に武田信玄が攻めて来た時には三河の野田城を守りましたが・・・落城して捕虜となりましたが、人質の交換により帰参しました。その2年後にあった長篠の戦では、織田信長に絶賛される働きをしています。
1590年、廃城となりました。
徳川家康の関東移封に伴い、松平家広は武蔵国松山へ移りました。桜井松平家はその後、少しずつ加増しながら各地を転々としました。そして1711年に摂津国尼崎藩に移り、そのまま明治維新を迎えました。明治時代からは桜井姓に改姓し、子爵となりました。尼崎にある桜井神社には、松平信定からの歴代当主が祀られています。
所在地:愛知県安城市桜井町城阿原
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