2016/03/11
藤井城/愛知県安城市
藤井城跡は住宅街に城址碑が聳えています。訪問日は2014年8月5日です。

▲説明板と城址碑
確かこの辺・・・!そんな感じでウロウロしていると、何だか1本やたら高いソレが立っていました。その周りも何だかとってもソレっぽい感じ。近づいてみると、当たりでしたヽ(´∀`)ノ

▲別の角度から
せっかくなので色んな角度からウロウロしていると、ご近所の方に話し掛けられました。怪しかったのでしょうか?城址碑指差して「ここは城跡なんですよー」なんて話したら、かなり驚かれた様子。あんなに目立つ石碑に「城址」って彫ってあるのに・・・僕等は他の人には見えないモノが見えちゃてるのか?なんて、ちょっと軽くショックでした。
◆歴史◆
藤井松平氏の祖・松平利長が築きました。
松平利長は、安祥松平氏2代・松平長親の5男です。もうちょっとわかりやすく書くと、松平清康の叔父です。・・・わかってw
松平清康は徳川家康のおじいちゃん、と書けば「あぁw」ってなるでしょうか。徳川家康の祖父ではありますが、織田信長の父・信秀とは鎬を削る仲でした。世代が1つズレてるように思えますが、松平家では14、5で嫡男が生まれています。30歳で既に「おじいちゃん」なのですが・・・祖父・清康と父・広忠は、そうなる前に没しています。・・・脱線し始めてます

築城は永正年間(1504~20年の間)のようです。
松平利長でわかってる事は・・・
1540年、安祥城が織田信秀に攻められた時に奮闘し、織田軍を撃退しています。安祥城主の松平長家は戦死してしまいましたが、城は守りきっています。
1560年、丸根砦で戦死しました。桶狭間の戦の前哨戦として、松平元康が大高城近くに築かれた丸根砦と鷲津砦を攻めました。この戦いは今川方の松平軍が勝利しましたが、後に今川義元が桶狭間で討死しています。
2代目・松平信一も猛将でした。
松平利長の嫡男なので、松平清康とは従兄弟です。ただ、年代的には清康の孫・徳川家康と同世代です。おじいちゃんの従兄弟と同世代って、いかにも太く短くな戦国時代らしいですね。
事跡は・・・
1558年、尾張品野城の戦で武名を挙げました。品野城は美濃に近い尾張北東部にありました。
1529年に松平清康が織田信秀から奪っていましたが、織田信長が奪還のため攻めて来ました。
1558年の戦では松平信一が織田軍の50余名を討つ活躍により、織田軍を撃退しています。ただし、品野城は翌年も織田軍に攻められ、焼失して廃城となりました。
1563年、三河一向一揆平定戦で活躍しました。三河一向一揆は松平家を2分した大きな戦でした。この戦で松平信一は藤井城を守り切り、松平元康より激賞されました。
1568年、近江の六角攻めでも活躍しました。織田信長が足利義昭を奉じ上洛する際、近江の六角氏が抵抗したため戦となりました。この時、徳川家康が出した援軍の主将が松平信一でした。六角氏の本拠・観音寺城の支城である箕作城攻めで、本丸一番乗りを果たしています。箕作城を1日で陥落させたことが、後の戦況に大きな影響を与えました。
1575年、諏訪原の戦いに参戦しました。長篠の戦で武田勝頼に勝利した徳川家康は、武田方の拠点を次々に攻め落としました。その1つが諏訪原城で、これにより武田方の重要拠点である高天神城が孤立しました。そして1580年、ついに徳川軍により高天神城が奪還されました。
1590年、廃城となりました。
松平信一が徳川家康の移封に従って関東(下総国布川)へ移りました。この時に藤井城は廃城となりました。松平信一はその後、関ヶ原の戦の功により常陸国土浦3万5000石の藩主となりました。そして1624年、丹波篠山城で没しました。藤井松平家は養子の松平信吉が継ぎ、その子の代で山城守家と伊賀守家に分かれました。伊賀守家からは松平忠周、松平忠固などの老中を輩出しています。
所在地:愛知県安城市藤井町北本郷
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