2016/03/09
東端城/愛知県安城市
東端城の跡には城山稲荷神社があります。訪問日は2014年8月です。

▲城山稲荷神社
城跡は城山稲荷神社となっています。かなり大きな神社なので、道を走っていてすぐにわかります。よく手入れされているようで、鳥居や石碑がとても綺麗でした。

▲城址碑
上の写真にも写っていましたが・・・鳥居の右にある石碑の側面に、東端城址の文字が彫られています。鳥居の左や別の箇所にもあった石碑にも、お城について色々彫られています。設置したのは民間の方のようですが、思い入れがありそうな感じです。

▲土塁
神社の境内には、お城の地形が所々に残っています。土塁はそこかしこにありました。ただ、はっきりと郭を囲むような感じではありませんでしたが・・・断片を追いながら、どうだったんだろう?と想像を掻き立てられました。

▲城内の様子
境内を歩き回り、反対側の出口に近い所の様子です。両側を土塁で囲まれて曲がっており、虎口のように見えます。どこがどうだったんだろう?と想像しながら散策すると楽しいかもしれません。
◆歴史◆
1580年、長田尚勝により築かれました。
長田尚勝は、東端城から南西の羽城の城主・長田重元の嫡男です。長田氏は尾張平氏の末裔ですが、ちょっと良くない事で有名です。それは平安時代末期、主であった源義朝を騙し討ちにした事です。長田忠致は後に源頼朝に従いましたが、平家討伐後に美濃で斬首されました。長田重元や尚勝は、長田忠致の兄・長田親致の子孫なのだそうです。
長田氏はこの頃、大きな事件に巻き込まれていました。それは、徳川家康の嫡男・松平信康の自害です。長田氏は松平信康に仕えており、1579年に主が自害した後は蟄居していたようです。翌1580年に、弟の永井直勝が徳川家康に召し出されて家臣となったことがわかっています。
そこからの推測ですが、父・長田重元がこの時に嫡男に家督を譲ったのかもしれません。そして心機一転、父祖伝来の羽城を離れて新たに城を築いたものと思われます。
1584年、永井直勝が城主となりました。
永井直勝は長田尚勝の弟です。徳川家康に召し出された際、その命により長田から永井に姓を改めたとされます。
永井直勝は小牧・長久手の戦で、三河奇襲隊を率いた池田恒興を討ち取る手柄を立てました。徳川家康からの信頼が厚かったこともあるのでしょうが、兄に代わって城主に任命されました。
後日談ですが、池田恒興の次男で西国将軍と呼ばれた池田輝政と対談する機会がありました。この時、池田輝政はとても憤慨したそうですが・・・それは父を討たれた事ではなく、その恩賞が5000石しかなかったことだそうです。
1616年頃、廃城となりました。
永井直勝が関東へ移ったため廃城になりました。あちこちで「笠間へ移り」と書かれていたのですが、どうでしょうか?
永井直勝は大坂の陣での活躍により、大幅な加増を受けました。1616年に上野国小幡で1万7000石、翌1617年、常陸国笠間で3万2000石です。小幡はたった1年なのでつなぎだった可能性があり、移ってなかったかもしれませんが・・・どうなんでしょう?
永井直勝の出世はその後も止まらず、最終的には常陸国古河7万2000石の領主となりました。
所在地:愛知県安城市東端町中縄手
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