2016/02/07
荘田城/群馬県沼田市
荘田城跡は公園になっています。訪問日は2014年4月19日です。

▲城址公園の入口
城跡はちょっと道がわかりづらいですが、近くまで来ると案内が出ています。ここに辿り着ければもうわかりますよね?w結構はっきりと城跡だと書かれていますし、駐車場もかなりの広さがあります。

▲登り坂
駐車場からどう進めばいい?って見渡すと、斜面を登る階段がありました。こんな感じの緩い坂道を登って行くと、城跡に辿り着きます。

▲主郭?
他にそれっぽい所が無かったので、多分主郭だと思います。城址公園という位なので確かに城跡のようですが、目立った堀や土塁、郭などはありません。古い時代のお城だから?かもしれませんが・・・

▲反対側の入口
登り切った広場の奥には、普通に段差の無い公園の入口が。こちら側の地形は全く要害性が感じられません。西からは見上げるような段差があり、東からは平坦な地形なので、崖端城ですね。沼田氏のお城の特徴なのかもしれません。

▲堀跡
城跡にある唯一の城跡らしいものがこれです。現地では「溝跡」と描かれ、周囲には竪穴住居跡が3つ描かれています。この深さでは防御機構としての堀には見えませんが、城があったのは戦国時代の前。当時は居館として機能すれば、それで十分だったからなのかもしれません。
◆歴史◆
940年、平家が館を建てました。
平将門の乱鎮圧に参戦した利根平八郎が、平家の若者の一人を伴って帰って来ました。この乱は平家の内輪揉めが発端だったので、若者がどっち方だったのかどうかはわからず。乱の詳細は割愛しますが・・・書いちゃいましょうか?wこれが荘田城の前身とされます。
1247年、三浦景泰が荘田へ落ち延び、沼田姓を名乗りました。
宝治合戦で三浦氏が滅ぼされ、三浦泰村の子・景泰が落ち延びて来ました。三浦景泰は沼田姓を名乗り、沼田氏の祖となりました。なぜ三浦氏が沼田へ?って思いましたが・・・三浦氏は大友氏に娘を嫁がせており、その縁戚だったのです。
大友氏というと九州の大友宗麟が有名ですが、そのルーツはここ荘田でした。荘田に館を構えた大友経家は、三女を伊豆に流されていた源頼朝のそば近くに仕えさせました。後に源頼朝の側近・近藤能成に嫁がせたのですが、その時既に子を身籠っていたそうです。そうして生まれた子が能直で、正妻・北条政子を恐れた頼朝は、大友経家の養子にしました。頼朝落胤説は後の世に作られた説ですが、大友能直は源頼朝に大変寵愛されたそうです。三浦氏は娘をこの大友能直に嫁がせており・・・長くなってきましたね

ということで、そのつてを頼って三浦一族が荘田へ落ち延びて来たという訳です。大友能直は京に居ることが多く、1196年には豊前・豊後の守護となりました。沼田氏が中心となって、大友氏のルーツである荘田を切り盛りしていたと思われます。
1405年、沼田景朝が小沢城を築き、本拠を移しました。
沼田景泰から8代めの沼田景朝が、小沢城を築いて移りました。その後4代114年もの間、沼田氏は小沢城を本拠としています。なぜ居城を移したのかについて触れたサイトは皆無。それだけに「なぜ?」がアタマを離れません。
当時は応永の乱と上杉禅秀の乱の間で、鎌倉と幕府の関係がギクシャクしていました。さも知ってるように書いてますが、あちこち拾い集めてつないでみているだけですw1399年に起きた応永の乱は、周防・長門など6カ国の守護・大内義弘が堺で挙兵しました。この乱に、鎌倉公方の足利満兼も同調し、武蔵国府中まで兵を進めていました。鎌倉公方軍は関東管領・上杉憲定が諌めたため、それ以上西へは進みませんでした。その後、大内義弘が討たれて乱が終息すると、足利満兼は罪を許されました。しかし、将軍・足利義満との確執は深まるばかりで、アノ手コノ手の嫌がらせを受けています。そして、1409年に足利満兼は32歳の若さで謎の死を遂げるのでした。
この中で1405年頃といえば、鎌倉公方は陸奥で伊達政宗と戦っていました。この伊達政宗は、戦国時代の伊達政宗が中興の祖と仰ぐ人物です。応永の乱の後、鎌倉公方が陸奥を管轄することになったのが事の発端です。これは、鎌倉公方が足利義満の次のターゲットにされた事を意味します。足利義満はこのようにして利害関係を発生させ、相争わせて力ある諸侯を粛清していました。
・・・長くなりそうw
ということで、伊達政宗が没したのが1405年の事でした。はしょり過ぎましたね

所在地:群馬県沼田市井土上町
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